◆ アーシュラーへのカウントダウン
夜の9時過ぎになると、アパートの部屋のすぐ真下、目の前の通りからドスン、ドスンと太鼓の音が響いてくる。これが始まると、もうテレビの音さえまともに聞こえない。
イスラム暦モハッラム月(2009年は12月18日からの1カ月間)が始まって以来、日に日に太鼓の音は激しくなってゆく。モハッラム月10日(12月27日)のアーシュラーの宗教儀式に備えた予行練習だ。
アーシュラーは、イスラム教シーア派3代目イマーム・ホサインの殉教を
悼む追悼儀式で、シーア派最大の宗教儀式と言える。アーシュラーの日に行なわれる行進、殉教劇、炊き出しなどの拠点となるテント小屋があちこちに設営されている。実際、5分も歩けば別のテントが見えてくる。その一つが我が家の目の前にもあるのだ。
追悼儀式と言っても、決してしめやかな行事ではない。むしろ、男の血が騒ぐ勇壮な祭りだ。太鼓のリズムと哀歌に合わせ、黒装束の男たちが鎖の束で自らの体を打ちつけながら町を練り歩く。煙幕の中、あちこちで羊が屠られ、路上は鮮血に染まる。「戦場」という言葉が自然に浮かぶ。7世紀、ホセインたちが殉教したキャルバラの戦いに思いを馳せる仕掛けが町中にあふれている。
殉教の精神とシーア派の正当性、そしてシーア派の団結を人々の心に呼び起こすアーシュラーだが、今年のアーシュラーは、6月の大統領選挙以来続いてきた改革派による一連の抗議デモの流れを受け、これまでで最大規模の抗議運動が起ると予想されていた。ただでさえそのような事態の中、さらに追い打ちをかけるような出来事が最近になって起こった。
アーシュラーを一週間後に控えた12月20日のことだ。この日、改革派の精神的支柱と言われた大アヤトッラー、ホセインアリー・モンタゼリー師(イランの最高指導者ハーメネイー師より階位は上)が突然亡くなった。翌日、テヘラン南部の宗教都市ゴムで行なわれた埋葬式には、政府の妨害にもかかわらずイラン全土から同師を自らのマルジャ(宗教上の規範)とする数十万人の市民が集まり、反体制のスローガンを叫び、治安部隊と小競り合いを起こした。
イランでは死後3日目、7日目、40日目に追悼式を行なうが、政府はモンタゼリー師の家族に、この追悼式の開催を禁じた。
しかし、3日目には多くの市民がゴムで追悼集会を開き、拘束者も出たという。そして7日目は、あろうことかアーシュラーの日と重なるのだ。改革派の指導者らは、この日にモンタゼリー師の追悼式とデモ行進を市民に呼びかけた。これまでで最大の反政府デモになることは明らかだった。
◆ アーシュラーの騒乱
アーシュラー当日、午前10時に家を出て、テヘラン市街の西外れにあるアーザーディー広場まで乗り合いタクシーで向かい、そこからバスに乗り換えた。このバスは、デモが予定されているアーザーディー通りとエンゲラーブ通りの2本の幹線道を一直線に進み、テヘランを東西に貫いて市街の東外れまで走ってくれる。バスの車窓から町の様子を見て、状況次第でバスを降りてみようと考えていた。今日も海外メディアによる抗議デモの取材は一切禁止されている。
休日で本数が少ないため、バスの中は身動きが出来ないほど混雑していた。アーザーディー広場から4キロほど走り、ナヴァーブ通りの交差点に近づいたところで、早速治安部隊と群衆が衝突していた。バスの中の若者らは「ヤーホセイン!ミールホセイン!」(※)と外の群衆に声を合わせ、しまいには運転手にバスを停めさせ、衝突に加わるため我先にとバスを降りていった。催涙ガスが放たれているのか、人々が顔を覆いながら歩道を逃げ惑っている。
「歴史は繰り返す、か……」
背後に立っていた初老の紳士がつぶやいた。31年前のイスラム革命とこの光景が重なって見えるのだろう。
歩道で一人の男が群衆に取り押さえられ、殴られたり蹴られたりしている。
「スパイだな……」
隣の男が誰に言うでもなく言う。私服警察がどういう理由か素性がばれて群衆に捕まったらしい。男は必死の形相で釈明と哀願を試みるが、そのまま裏通りへ引きずり込まれそうになり、それを止めようとした者たちのおかげで、すんでのところで周囲の手を振り払って逃げ去った。
改革派の抗議運動は、もはや理性の集団などでは決してない。そういった段階はとっくの昔に過ぎ去り、今はもう統制も歯止めもない、ただ敵を叩きのめしたい衝動に駆られただけの集団なのか。若者も、中高年も、女子学生も主婦らしい女性たちの姿も見える。笑顔はどこにもなく、誰の表情も険しく鋭い。かれらは紛れもなく、平和的なデモ行進ではなく、戦うために路上に繰り出しているのだ。
この衝突にバスの運転手は恐れをなしたのか、バスはエンゲラーブ広場を前にして突如南に進路を変えてしまった。恐らく最も衝突の激しいこの先の区間をすっかり迂回しようという考えだろう。バスは500メートルほど南に下ると、平行するジャムフリー通りを進んだ。そこでは例年通りのアーシュラーの行進や、テント小屋付近で食事や飲み物をふるまう人々の姿が見られた。
バスが再びエンゲラーブ通りに戻ったのは、昨日も激しい衝突があったという、テヘラン市街東部のイマームホセイン広場だった。
直径100メートルはあるロータリー式のこの広場は、車両と人で埋め尽くされ、バスが何台も立ち往生していた。広場中心を挟んだ向こう側では治安部隊と改革派デモ隊が衝突し、催涙弾が打ち上げられていたが、広場のこちら側では、小さな子供も参加する通常の追悼行事が粛々と行なわれているという不思議な光景だった。
そのとき、恐ろしい光景が目に入った。一台前のバスに治安部隊が乗り込み、30代ほどと思われるごく普通の服装の女性客一人を警棒で殴りつけ、バスから引きずり降ろそうとしているのだ。その女が何をしたのか分からない。携帯で写真を撮ろうとしたのか、改革派のスローガンを叫んだのか、定かではない。
「何も叫ぶんじゃないわよ!」
同じようにその光景を見ていた車内のおばさんが、我々男性エリアの乗客に向かって声を押し殺すように釘を刺した。
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