イランの首都テヘランの西の玄関口アーザーディー(自由)広場。イラン現代史の様々な場面で重要な役割を果たしてきた。広場中央に立つアーザーディータワーは夜間、美しくライトアップされる(撮影・筆者/2011)


◆「アラブの春」とイランの抗議運動(上)

2009年6月の大統領選挙での不正疑惑に端を発したイランの抗議運動は、2010年2月11日のイスラム革命勝利31周年記念日以降、一旦は収束に向かった。大統領選挙一周年の日も平穏のうちに過ぎ、その後の一連の抗議デモの序章となった9月の世界ゴッツの日が巡ってきても、前年のような騒ぎは起きなかった。

ところが、2010年暮れから2011年1月にかけての1ヵ月間でチュニジアのベンアリ政権が倒れた「ジャスミン革命」がアラブ諸国に飛び火し、中東各地で民主化を求めるうねりが広がった。いわゆる「アラブの春」だ。翌月2月11日にはわずか3週間の抗議運動でエジプトのムバラク政権が崩壊する。これに触発され、にわかにイランの情勢も動き出した。

2月に入ってから、抗議運動の指導者であるミールホセイン・ムーサヴィー元首相と、メフディー・キャッルービー元国会議長が声明の中で、エジプトとチュニジアの国民との団結を叫ぶデモ行進を2月14日に行うと発表し、内務省にデモの許可申請を行なったのだ。

最後のデモから1年以上が過ぎた今、果たして危険を顧みずに多くの市民が集まるものだろうかと私は訝った。それに、この期に及んで内務省に許可を求める彼らのスタンスに疑問を覚えたし、そもそもアラブを毛嫌いし、見下しているイラン人が、アラブの革命に触発されて、その団結を示すという口実に呼応するとも思えなかった。

デモ予定日の2月14日、会社の同僚から、テヘラン中心部の広場に大勢の市民が集まっていると聞いたのは、午後4時前のことだった。その同僚は、「内務省の許可がおりて続々と人が集まっている」と言ったが、許可がおりたという公式なニュースはどこを探しても見当たらない。そうした噂がSNSで故意に流されたのかもしれない。

仕事を早めに切り上げ、デモの現場に向かおうとしたが、市街中心部へ向かう上りのバスは普段の10分の1の本数に減らされ、バス停には長蛇の列が出来ていた。乗合タクシーにようやく乗り込むと、同乗者の若者は、昼間、エンゲラーブ広場に数万人が集まり、催涙ガスが飛び交っていたと興奮気味に話してくれた。

 タクシーを乗り継いでようやくアーザーディー広場に着いてみると、そこは思いがけなく、普段と変わらない夕方の喧騒しかなかった。プロテクターに身を固めた治安部隊の姿を多く目にするが、デモ隊らしき人影は見当たらず、ものものしい警備を横目に帰宅を急ぐ人々であふれていた。アーザーディー広場へ至る主要道路の警戒は厳重で、デモ隊はここまで到達できなかったのか、あるいは自分が訪れたタイミングが悪かったのかは分からない。そこからわずか北にあり、しばしば衝突の舞台となったアーリアシャフル広場でも、治安部隊とともに、バスィージ(体制派市民の動員軍)の若者たちが威勢よくバイクを乗り回している姿だけが目についた。

翌日のBBCのニュースで、このデモには数万人の市民が参加したほか、地方の大都市でもデモが行われ、2人の犠牲者と多数の逮捕者が出たと報じられた。この2人の犠牲者を追悼する4日忌と7日忌のデモ行進が、18日と21日に挙行された。

そして3月1日火曜、首都テヘランを始めとするイラン各都市で再度、改革派による抗議デモが行われた。このデモは、2月14日から自宅に監禁されている改革派の指導者ムーサヴィー元首相と、キャッルービー元国会議長、及びその妻の解放を求めるため、1週間ほど前から呼びかけられていたものだ。

イラン政府は、かれらをそれぞれの自宅に監禁していたが、電話、インターネットなどすべての通信手段を奪い、外部からの接触も完全に遮断していたため、家族ですら二人の安否を確認出来ない状態が続いていた。このため、海外に拠点を置く改革派グループが声明を出し、二人の監禁を解かなければ、3月1日、ムーサヴィー氏の誕生日にデモを行うと宣言していたのだ。

デモの前日、改革派ウェブサイトから、二人がすでに逮捕され、刑務所に移送されているとの情報が流された。BBCを始め、世界の大手メディアはそのことを一斉に報じたが、イラン当局は、二人はまだ自宅にいるとしてこの報道を否定した。

この、改革派指導者逮捕のニュースは、改革派サイドからすれば、二人の安否を知るため、逮捕された可能性もあるという憶測をあえて事実のように報じ、イラン当局に揺さぶりをかけたのだろう。逮捕していないという明らかな証拠を当局が提示しない限り、デモの規模が必ず拡大することも見越していたはずだ。

しかしながら、当局は何の証拠も示さないばかりか、デモ当日、これまでにない規模の厳戒態勢を敷いた。政権側が少しでも譲歩や理解を示せば、抗議側を勢いづかせるだけであることを、チュニジアとエジプトの革命から学んでいたのだろう。

夕方6時過ぎ、私はバスで市街を南北に貫く目抜き通り・ヴァリアスル通りを北から南下し、今日のデモ行進が予定されているエンゲラーブ通りを目指した。通過する広場や主な交差点は、どこも治安部隊がおよそ100人単位で厳重に守りを固め、そこに至る道筋には、バスィージが数メートル間隔で立ち、警戒にあたる。

これまでのデモと比べ、バスィージの装備が徹底していることに気がつく。ほぼ全員のバスィージが、デモ鎮圧部隊が持つものと同じ警棒、ヘルメット、透明の盾を備えている。全身を覆うプロテクターこそないが、いつでもデモ隊と衝突できる構えだ。市民に市民を対峙させるという当局の姿勢がより色濃くなった。バスィージには、年配者から、まだ十代と思しき少年の姿も見られた。

バスを乗り換え、今度はエンゲラーブ通りを西に向かう。繁華なこの通りまで来ると、各交差点の治安要員の数は、優に一般市民の数を超えている。誰かが一声でもスローガンを叫べば、次の瞬間には取り押さえられ、その場から連行されてしまうだろう。

エンゲラーブ広場の手前まで来たとき、交通は完全にストップし、バスは30分近くも停車を余儀なくされた。その間、治安部隊とバスィージの数百台ものバイクがエンゲラーブ広場方面に殺到していった。デモ隊との衝突が起ったのかもしれないが、確認できない。バスがようやく動き始め、エンゲラーブ広場に到着したときには、夥しい数の治安部隊の姿しか認められなかった。

多くの報道から、この日、テヘラン市街だけでなく、地方都市でも小規模な衝突があったという。のちに聞いた話では、この日のテヘランでの主な衝突は、警備の厳重さから、ほとんどが表通りから一歩入った裏通りでゲリラ的に繰り広げられたという。

改革派はこの勢いを失わないため、今後毎週火曜にデモを行うと発表した。

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