◆私の憂鬱と決意
すでにこのころの私には、このままイランでの生活を続けることに迷いがあった。2009年の大統領選挙不正疑惑に端を発した国内騒乱の中で、自分の力に限界を感じたこと。騒乱が収まってからは、まるで呆けたように身の回りの出来事に対する関心を失ってしまい、年中行事や宗教行事があっても、それを記事にするような気持ちも起きなかった。好奇心がすっかり摩耗していた状態で、このままの生活を続けていてもあまり意味がないのではないかと感じ始めていた。
そんなある朝の出来事だった。いつものようにテレビを着けると、NHK国際放送のニュース映像が目に飛び込んできた。黒い濁流が自動車をおもちゃのように次々と押し流してゆく現実離れした光景に、おもわずどこの国の出来事だろうと寝ぼけた頭で考えた。次の瞬間、まだ寝ていた妻を大声で呼んた。
2011年3月11日、地震と津波、原発の動向に日本中が震撼していたとき、私は遠く離れた異国にいた。その後も、出勤し、いつものように残業して帰宅する日々が続いた。日本が未曽有の惨事に見舞われている中、私自身の生活は何一つ変わらなかった。毎日のようにテレビに映し出される被災地の光景も、空爆に晒されたバグダッドやガザの廃墟のように、遠い世界の出来事のようにしか目に映らなかった。東日本大震災が、日本人が共有する国民的記憶だとすれば、私はそれを全く共有していなかった。
(まただ……)と思った。
阪神淡路大震災のときも、オウムの地下鉄サリン事件のときもそうだった。私は徒歩旅行中で、事件から何日もたってから、通りかかった小さな村で、その出来事を聞かされたのだ。
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いつの時点で帰国を決意したのか、正確には思い出せない。恐らくは、3.11からそう日が経っていない頃のことだったと思う。それまでのいろいろな思いが、3.11をきっかけに、一気に帰国への決意に集約していったように思う。
◆妻の自信と楽観
妻は、テヘランで私などよりずっと豊かな人間関係を築いていた。この国で初めての妊娠と子育てを経験した妻は、似た境遇の日本人女性たちと互いに助け合いながらやってきたし、友人のイラン人女性とも女性ならではの濃密な付き合いがあった。息子を連れて足しげく通ったバザールや近所のお店の人たちとも、私などよりずっと顔なじみだった。その妻に帰国への思いを打ち明けるのは勇気がいることだった。
「考えた末の決断なんでしょ?」
妻は表情を雲らせることもなく言った。この2年ほどの私の苦悩を知っての発言だったのだろう。
「新しい場所に旅立って、そこでまた新しい生活が始まると思うとわくわくするよ。わたしはそういうのが好きだし。イランにはまた遊びに来ればいいじゃない。大丈夫、どこに行ってもいい出会いはあるよ」
イランでの安定した生活や人間関係の多くを失うこと、また何の見通しもなく日本での新生活を始めることに対して、妻はそれほど不安や恐れを感じていないようだった。イランなど、一度離れてしまえば、そうそう来られる国ではないことも、あまり深く考えていないようだった。それは裏を返せば、妻がこの国でどれほど人間関係に恵まれていたかを物語っているとも言えた。たくさんのすばらしい出会いと経験が、新生活に対する勇気と自信を妻に与えているのだ。
2011年の春過ぎ、私は年度末での退職と帰国の意向を職場のイラン国営放送の上司に伝えた。と同時に、残り1年を切ったイラン生活のカウントダウンが始まった。(終わり)
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