(※2003年初出のアーカイブ記事。情報等は当時のまま)
◆命がけの撮影
ザルミーナの処刑を隠し撮りしたのは、女性人権組織RAWA(アフガニスタン女性革命協会)の女性メンバーたちだった。
RAWAは1977年に結成され、アフガンの民主主義と女性解放をスローガンに活動をつづけてきた。
メンバーはおよそ2000人。多くはパキスタンのアフガン難民キャンプで、子どもや女性への教育や医療支援活動を行なってきた。タリバン政権下のアフガニスタンでは地下活動をつづけながら、通学を禁止された少女たちのための隠れ学校を組織した。
RAWAの活動はタリバン政権崩壊後も自由になったわけではない。現在も公然とした活動はしていない。暫定政権の中核をになっている北部同盟も女性を抑圧してきた、と批判しているからだ。
私はアフガン入国前にパキスタンでRAWAのメンバーと接触し、カブールの地下メンバーの電話番号を手にいれていた。電話事情の悪いカブールでは連絡を取り合うのは容易ではなかったが、2週間かかってようやく隠し撮りにかかわった女性と会う約束をとりつけることができた。
私は彼女とともに処刑場となったサッカー競技場を訪れた。
ムニラ・バハール(21)は青いプルカをかぶり、隠し撮りした時と同じ位置の観客席に座った。
彼女は、ザルミーナ処刑の日の様子を話し始めた。
隠し撮りは周到に準備され、6人でチームを組んで細心の注意がはらわれた。撮影したことが見つかれば、逮捕や拷問の危険があったからだ。
観客席の正面スタンドは女性席だった。入り口では女性検査官がボディチェックと荷物検査を行なっていた。ひとりがリンゴをいっぱい詰め込んだカバンの底に小型ピデオカメラを隠し、荷物検査をすり抜けた。
観客席ではタリバン兵が監視にあたっていた。兵士の視線をさえぎるように5人が撮影者の周りに座った。ムニラは当時を思い起こすように、私に語りかけた。
「メンバーが撮影しているあいだ、からだの震えが止まりませんでした」
処刑の瞬間、観客席の女性たちは口々の声をもらしたという。
「残された子どもがかわいそう」「なにも死刑にしなくても...」。だが、女たちの声の多くが「夫を殺した女は殺されて当然」という罵りであった。
「これが当時もいまもアフガンの現実なんです」とプルカ姿のムニラは悲しげにうつむいた。
処刑前、ザルミーナはどんな気持ちだっただろう。私はプルカをかぶって観客席からグラウンドに降り、彼女が処刑されたその場所に座ってみることにした。
頭からすっぽり顔を覆うブルカの目の部分は綱目状になっている。かぶってみると、思ったより視界ははっきりしていた。
目の前にはサッカーのゴールポストが見え、その向こうにはコンクリートでできた灰色の観客席がつらなっていた。
私は、胸が押しつぶされそうな気持ちになった。
いきなり大観衆の前に引きずりだされ、罵声の中でザルミーナはどれほど恐怖を感じたことだろう。
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