裁判所地下の書庫で公判記録を探し続けた。タリバン時代が続いたなかでも、多くの公判記録は保存されていた。だが、長年にわたる混乱で多くの資料や記録は散逸し、ザルミーナの公判記録を探しだすのは困難を極めた。(2002年3月撮影:玉本英子)

ザルミーナ裁判資料から、二つの大きな情報が得られた。
ひとつは共犯者の男の存在だ。ザルミーナは「メルザ」という名の農夫と男女の関係にあった。その男が犯行にかかわっている、と資料には書かれてあった。

裁判所地下の書庫からザルミーナの供述調書が見つかった。逮捕直後にとられた調書の最後に拇印として青インクで押されていたザルミーナの指紋。(2002年3月撮影:玉本英子)

メルザは逃亡犯として手配はされたが、逮捕はされていない。治安警察にお金を渡して逃げた可能性も考えられる。
事件現場となったザルミーナの家近くにメルザの親戚が暮らしていた。メルザについて尋ねると、数年前に行方不明になったきり、生死すらわからないのだという。

結局ザルミーナだけが殺人犯として裁かれたのだった。
さらに重要な事実がわかった。ザルミーナ裁判は、最高裁で一度は死刑判決が棄却され、裁判のやり直しが命じられていたのだ。当時では異例のことだったという。
私は最高裁判所で当時、ザルミーナヘの死刑判決を棄却した裁判官のひとり、ジクロワ氏(48歳)と会うことができた。彼はなぜ、死刑を棄却したのだろうか。

「ザルミーナの子どもたちのためです。7人の子どもたちは父親を殺された被害者です。被害者である子どもたちから母親までを奪うことはできません」

しかし、再審では地裁、高裁、最高裁のいずれもが死刑判決をだした。そうした経緯をゆっくり私に話しながら、ジクロワ氏は目を細めて、窓の向こうを見つめた。
「再審でもう一度死刑判決になったのは、タリバンの影響もあったと思います。そういう時代でした」

自分の子どもたちに対して支払え、とされた「賠償金」は刑務所にいたザルミーナに払えるわけもなかったが、親戚からかきあつめて工面すれば、なんとかなった額ではある。

当時、最高裁判所でザルミーナ公判の審理をした裁判官のひとり、ジクロワ元裁判官。「夫殺しはアフガンでは重罪であるが、一方で、「被告=母が死刑になれば子どもが孤児となる」という理由から、審理自体のやりなおしを求める意見が判事のなかから出たという。このため最高裁ではいったん死刑判決が棄却され、下級審に差し戻しとなったものの、再審で再び死刑の判決が下された。(2002年3月撮影:玉本英子)

ところが、どの親戚も皆、これを拒否したのだった。
「一族の恥」であるザルミーナに同情する親族はいなかった。

ザルミーナ公判の判決文を手にするジクロワ元裁判官。複数の裁判官が審理にあたり、ハンコはジクロワ氏が押したもの。戦争、夫殺し、一族の名誉、タリバンという時代、そしてアフガニスタン社会。いくつもの要因がからみあったなかでの裁判だった、と話した。(2002年3月撮影:玉本英子)

一縷の望みさえ絶たれたザルミーナは、死刑執行までの約2年を女性刑務所のなかで過ごすことになった。
(つづく)【玉本英子】

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