(※2003年初出のアーカイブ記事。情報等は当時のまま)
◆ザルミーナ死刑執行の日
公開で刑を執行する、いわゆる見せしめ刑はアフガニスタンでは決して珍しいことではない。
たとえば、窃盗などの罪を犯した者がトラックの荷台に乗せられ、「市中引き回し」にされることはタリバン政権以後の新政府下でもおこなわれている。
子どもたちはこういう様子を目の当たりにしながら「悪いことをすればあんな目にあうのだ」と心に刻んで育ってきた。
見せしめ刑を前近代的と片付けるのは容易だが、日本でも容疑者が逮捕された段階で顔と実名が公表される。メディアは有罪が確定していないのに犯罪者として扱い、容疑者の家族や職場に競って押し寄せる。ある意味では「見せしめ」は、現代の日本でも別の形で存在しているといえる。
ただ、当時のタリバンによる競技場での公開処刑や、バーミヤン大仏爆破(2001年)は、政権の力を知らしめるアピールであったという側面も多分にあった。イスラム法に基づく刑の執行という宗教的な理由以外にも、社会の引き締めや政治情勢といった要因がいくつも重なりあって、「夫殺し、ザルミーナ」の処刑が最終的に確定されていったと推測される。
1999年11月16日、ザルミーナは死刑執行の日を迎えた。
死刑判決を受けていた彼女だが、この日、自分がこれから処刑されるとは思っていなかった。
幼い子どもがいるから死刑にはされないだろう、とかすかな希望さえ持っていたようだ、と刑務官は証言している。
だが、処刑はすでにタリバン政権によって決定されており、前日の15日には、国営ラジオ放送を通じて、犯罪者の処罰を競技場でおこなうことが発表された。
刑務官シェヒルバヌは、執行の日のようすを話し始めた。
「刑務所にタリバン兵がやってきて、ムチ打ちのあとに釈放する」とザルミーナに告げた。
彼女がパニックにならないよう、タリバン兵がそういう言い方をしたと思う」
「釈放」という言葉をきいて、ザルミーナの顔はほころんだという。
そしてムチ打ち刑の痛みが少しでもやわらぐようにとブルカの下にセーターを3枚着込んだ。
ザルミーナの母は、前日のラジオ放送で娘の死刑執行があるときき、執行当日の朝、刑務所に最後の面会に訪れている。
たが、これから死刑となることはザルミーナには伏せていた。
午後2時前、シェヒルバヌともうひとりの刑務官もブルカをかぶり、ザルミーナを連れ、赤いピックアップトラックの荷台に一緒に乗った。
3人を乗せたトラックはガジ競技場へと向かった。
刑務所から競技場までは20分ほどの距離。
ムチ打ちさえ終われば刑務所に戻らなくてすむ、と考えていた彼女は、最後の辛抱だと、との思いだったことだろう。
競技場は観衆で埋め尽くされていた。
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