◆歩道橋の思い出
2012年の年が明け、イランでの日々も残すところ2ヵ月を切った。その日、私はふと通りかかった歩道橋の上で、いつものようにあの少年の姿を探していた。彼がひょっこり戻ってきているのではないかと期待しながら。
我が家から歩いて15分ほどのところに、長い長い歩道橋がある。高速道路を渡るためのもので、長さは50メートルほど。渡ったすぐ先に、かつて通った大学院がある。あの頃、落ちこぼれ学生だった私は、行きも帰りも晴れやかな気持ちでこの橋を渡れたためしはなかった。
この歩道橋の真ん中で、すれ違いざま、十代と思しき不良二人組に殴り掛かられたこともあった。突然通りかかった外国人を後ろからけり倒し、日ごろの憂さを晴らすかのように、残酷な笑みを浮かべながら好きなだけ殴りつけ、他の通行人が現れると去っていった。昔習っていた空手は、何の役にも立たなかった。
苦い思い出の残るその歩道橋には、できるだけ近づかないようにしていたが、ピックアップタクシーではなくバスで通勤するようになると、また毎朝この歩道橋を渡るようになった。そうこうするうちに、つらい記憶は過去へと遠ざかり、それと入れ替わるように、その少年が私の前に現れたのだ。
歩道橋の中ほどに、いつも彼は佇んでいた。7歳ぐらいだろうか。くっきりとした目鼻立ちに栗色の短い髪。小さな両手にポケットティッシュをいくつも抱え、通行人が現れるのを待っている。彼がこの歩道橋の上に現れたのは、1年ほど前のことだ。
人が来ると、横にぴったりと付いて歩きながら、「買ってよ、ねえ買ってよ」としばらく食い下がる。毎日その歩道橋を渡る私は、週に2回くらいの割合で彼からポケットティッシュを買っていた。買うときは一度に5個くらい買うので、彼にとってはいいお得意さんだったろう。一個の値段は日本円で10円から20円くらい。日によって値段はころころ変わる。最初の頃は、お釣りもよく間違えて、多く渡してくるときもあった。
少年は、私が週に2回くらいしか買わないことを知っていて、毎日「買ってよ」とは言ってこない。大抵はすれ違いざま、ただ右手を差し出して握手したり、パチンと手のひらをたたきあったりする。私にとっては、毎朝の嬉しい日課だった。
他の通行人たちも、この少年からよく買っているようだった。立ち止まって、買いながら少年と何か話をしたり、少年にお菓子や果物をそっと手渡す人もいる。雪の日、手が凍えて泣いている少年の手に大額の紙幣を掴ませ、「もう泣くなよ!」と励ましている男性もいた。腰を落として、いつまでも少年と話し続けるOLさんもいた。
そんな光景を見ていると、イラン人の心の垣根の低さは、単に人と人との間だけでなく、大人と子供、または異なる社会階層の間にも言えることなのだと実感する。このままこの少年が、社会から疎外感を感じることなく成長してくれればと願わずにはいられない。
イランでモノ売りの子供を見ると、いたたまれなくなると話してくれた日本人女性がいた。確かに、雨の日も、雪の日も、朝から晩まで、学校にも行かずにティッシュを売るのは、本来子供のやることではない。
この国では、路上でモノを売り歩く子供たちの姿は珍しいものではない。かれらは、巨大な組織の最底辺で働く孤児であることがほとんどで、本当の家族のもとでその商いの手伝いをしていることは稀だとも言われる。こうした子供たちは将来、高い確率で麻薬の売買に関わることになったり、当人が麻薬中毒者になったりもするだろう。本当にイランが進んだ国ならば、この少年は保護されて然るべきなのだろうが、かれらに差し伸べられるのは、行政の支援ではなく、一般市民の善意に留まっているのが現状だ。
ある日、少年が言った。
「来週からいなくなるんだ」
「どこかへ行くの?」
「アフガニスタン……」
「お前、アフガン人だったのか」
「うん。だから買ってよ」
翌週も少年はいた。
「買ってよ」
「この前買ったばかりだよ」
「もう当分買わなくていいから今買ってよ」
「前にもそんなこと言ったよね。アフガニスタン行きはどうなったの?」
「来週だよ」
その翌週も彼はいた。
その週から私は10日間ほど所用でテヘランを離れた。そして戻ってきたとき、歩道橋に少年の姿はなかった。その翌週も、翌々週も。どうやら本当にアフガニスタンに帰ってしまったようだ。
最後にたくさん買ってあげればよかった。そう後悔しているのは、きっと私だけではないのだろうと思いながら、私は歩道橋を行き交う人たちを見やった。
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