大阪・京橋駅空襲の慰霊碑に手を合わせる参列者。身元が分っているだけでも210人の犠牲者が出たという。(8月14日・JR京橋駅前で撮影・新聞うずみ火)

 

◆駅舎は吹き飛び、石垣や柱、壁などが乗客を押しつぶした
敗戦前日の1945年8月14日に数百人の命が奪われた「京橋駅空襲」の慰霊祭が14日、大阪市城東区のJR京橋駅前で営まれた。読経が続くなか、参列した遺族ら約300人が犠牲者に祈りをささげた。(矢野宏・新聞うずみ火)

72年前もうだるような暑さだったという。白昼、襲来した米軍のB29爆撃機は145機。攻撃目標は大阪城内で焼け残っていた「大阪砲兵工廠」。1870(明治3)年に設立された兵器製造工場で、大戦前には6万人が働いていたというアジア最大の軍需工場である。B29爆撃機は1トン爆弾など650発を投下、工場は壊滅的な被害を受けた。

国鉄京橋駅は工場の北側に隣接していた。当時、空襲警報が発令されると、列車は最寄りの駅で停車することになっていた。おりしも、城東線(現大阪環状線)の上下2本の電車から1000人近い乗客が駅の防空壕へ駆け込もうとしたが、すでに満杯状態。

あふれた乗客らが城東線の下側を走る片町線のホームに避難したところ、駅に落ちた数発の1トン爆弾のうち、1発が城東線を突き抜けて片町線ホームを直撃した。駅舎は吹き飛び、石垣や柱、壁などが乗客を押しつぶした。犠牲者は身元がわかっているだけで210人、家族全員が亡くなったケースもあり、500人とも600人とも言われている。

「まさに地獄絵図でした」。1本前の電車で京橋駅に下車した安本恒次良さん(87)=大阪市城東区=は駅の防空壕に避難して九死に一生を得た。当時15歳。疎開先の福知山から実家に帰宅する最中での惨劇だった。

防空壕に避難していても生きた心地がしなかったという。「防空壕の中は20人ぐらいがぎゅうぎゅうに身を寄せ合っていました。近くに爆弾が落ちるたびに、『ドドーン』という爆音がひっきりなしに続き、大きな地震のように激しく揺れ、何度ももうダメだと思いました」
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