イズミールのブローカーの人は私たち家族を家に泊めてくれました。その家の地区には、シリア人だけではなく、様々な国の人であふれていました。イラク人、 アフガニスタン人、パキスタン人、イラン人。インド人もいました。ほとんどが難民としてヨーロッパを目指す人たちで、多くがお金を持っておらず、路上で寝 ている人も見かけました。かれら全員が「自分はシリア人だ」と話していたので少し笑ってしまいました。
イズミールでの数日間の滞在中、私は市場などへ行き、ヨーロッパ行きに必要なものを買いそろえました。一番の必需品は救命胴衣で、それぞれが自費で 用意しなければなりません。ギリシャへ渡るボートが転覆して溺れるケースが相次いでいました。コバニ出身の3歳のアイランちゃんがトルコの海岸で、水死体 で発見されたニュースが、世界中に発信されましたが、彼は救命胴衣をつけていませんでした。ですから私たちは質のよい救命胴衣を買いました。
◆ゴムボートで闇夜の海へ
ギリシャに渡る日が来ました。ブローカーが手配したバスに35人の難民が乗り込みました。海岸地帯にはトルコの国境警備兵が目を光らせているので、まずは 海のそばにある森の中で身を潜めます。そして警備が来ない時間を狙ってボートに乗るチャンスを待ちました。警備は頻繁に来るため、数日間、森の中に滞在し なければなりませんでした。その間の緊張とストレスは極限に達します。
ある夜の午前3時ごろ、チャンスが来ました。35人それぞれが救命胴衣を着て、ブローカーが指示したボートのある出発ポイントへ向かいました。懐中電灯をつけることはできず、あたりは真っ暗です
出発ポイントの海岸に着くと、8メートルほどの長さのゴムボートがありました。しかし、それは、とても古いもので小さな穴がいくつも開いているのが 分かりました。いつ沈むかわからないと感じた私たちは、ブローカーにゴムボートの交換を訴えました。そして、他のゴムボートを用意してもらうことができま した。急いで空気を入れてもらい、全員が乗り込んだ後、ブローカーは去っていきました。そこからは、自分たちで海を渡らなければならないのです。すべて自 分の責任になるのです。死ぬかもしれないとみんな覚悟をしました。
夜中だったため、2人の娘たちは腕の中で眠っていました。私は子どもたちには命がけの脱出の様子を見せたくはなかったので、正直ホッとしました。私は妻と少しだけ話をして、夜空を見上げました。そして「神様、どうか助けてください」と祈りつづけました。(つづく)
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