棄権してはいけないと言いたいのではない。そんなことは個々人の判断だ。問題はその理由である。選挙に行く代わりに他の善行をすればいいという前者の発言からは、投票を慈善事業のように考えていることが分かる。解散が馬鹿げているから棄権しようと呼びかける後者は、投票率が下がると権力者たちがあわてふためいて反省するかのように考えているらしい。考えが的外れだし、甘すぎる。「政治」の恐ろしさが分かっていない。
原理的な次元の話をしてみよう。権力とは、強制力である。権力者はそれにより、税金を取り立てたり、誰かを罰したりすることができる。それに従わなければ、場合によっては刑務所行きだ。
民主主義の下では、権力者は憲法や法律、議会、裁判所によって縛られている。だが権力の本質自体は昔と変わらない。誰も権力者の権力行使を監視せず、それを広く知らせようとせず、何か問題があっても抗議しなければどうなるか。実際に誰も守らず、それを咎めないなら、憲法も裁判も絵に描いた餅にすぎなくなる。権力者は次第に増長するだろう。弱い人たちに対して増税したり、仲間うちで国の財産を分け合ったり、友達の罪をもみ消したり、若者を戦地に送り込んだりするかもしれない。
私たちは、自分の身を権力の暴走から守るために、常にそれを監視し、制約する必要がある。少なくとも、「常に監視しているぞ」というメッセージを送る必要がある。投票はそのための手段の一つだ。もちろん敢えてこれを拒否して、他の手段を選ぶ考え方もある。しかし確実に言えるのは、「投票の代わりに身近な善行をする」とか「馬鹿馬鹿しいので棄権して権力者に一泡吹かせる」なんてアイデアが権力を制約する手段には絶対になり得ないということだ。
政治は慈善事業ではないし、私たちは権力者にもみ手で迎えてもらえるお客様でもない。政治権力は「黒い死」を握っている。甘く見ていると、ある晩、自宅の前に「黒い死」が訪ねてくるようなことにもなりかねない。私たちの監視や制約の努力が弱まれば弱まる分だけ、そんな日が近づくことになる。
加藤直樹(かとう・なおき)
1967年東京都生まれ。出版社勤務を経て現在、編集者、ノンフィクション作家。『九月、東京の路上で~1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから)が話題に。近著に『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社)。