さらには、南アには、他国からやってきたアフリカ人が、暮らしている。
ケープタウン中心部で自動車を停めるスペースを探していたところ、ここが空いていると手を振って教えてくれた男性がいた。ちょうど小銭がなかった私は、手持ちの小額紙幣を渡し、「駐車場代としては、ちょっと高いよね」と、フランス語で話してみたところ、その男性は目をまんまるくして驚く。
彼は、マリからやってきたビジネスマンだった。すかさず、彼が背にしていた建物から、「兄弟!」と言いながら別の男性が登場。その方は、ブルキナファソ人。あっという間にちょっとした人だかりとなり、そこに西アフリカ人コミュニティがあることを知った。そしてマリ人の男性は、これはあんたものだと言って、渡した小額紙幣を私に差し戻した。
ケープタウンだけでなく、首都のプレトリアやヨハネスブルグ周辺、ダーバンといった大都市を散策していると、英語とフランス語をはじめ、アラビア語やスペイン語や、どこかで聞いたことのあるアフリカ各地の母語など、実に様々な言葉が聞こえてくる。アフリカ地域の他国で取材中、アフリカのどの国に行ってみたいかと聞いてみると、南アフリカの名がまず上がる。今も、南アフリカを目指すアフリカ人は多い。
そして、南アが多様さを内包してきた歴史は、長い。1652年にオランダがケープ植民地を設立し、続いてフランスからのユグノー派も1600年代末に入植を開始した。この頃から、オランダにより現マレーシアやインドネシアから多くの人々が奴隷として連れてこられている。
その後1795年には、イギリスがケープを占領する。インドと東部アフリカ沿岸部との繋がりは古くまで遡ることができるが、19世紀に入ると、多くのインド人労働者が南アフリカに渡ってくるようになった。南アにもともと暮らしていた人々の存在をよそに多方面からの来訪者が続いたのち、1948年にアパルトヘイト体制が始まる。この悪名高い政策は、1994年まで続けられた。南アの多様な社会は、このような歴史を経て生まれたものだ。
2010年ごろから、しばしば、南ア在住の白人や南アでのビジネスに関わる人々から、アパルトヘイトがあったからこそ、今の南アの繁栄があるといった話を聞くようになった。アパルトヘイトが終わってから治安が著しく悪化したとの声も、よく聞く。
異文化が共存する社会のストレスと、南アが抱える諸問題を想像すれば、彼らの言に、共感はできないが理解はできる。しかし、白人の入植がなく、白人社会が築いた西欧に近いインフラがなかったとしても、きっと南アフリカには南アフリカの、また別の形での幸せが築かれていただろう。古来その土地に暮らしてきた人々を虐げてまで得られる繁栄など、そもそもあってはならないものだ。現状を認識する上での言葉使いとして、「1994年前」と「1994後」を使うことはよくわかるが、あの時代をいとおしく懐かしむような文脈でもって、アパルトヘイトの頃はよかったと言われてしまうと、私は首を縦にふることはできない。
ドラケンスバーグで私設観光案内所を営むクリスの話が、印象に残っている。彼の自宅で食事をともにしていた際、私は彼の半生を訪ねてみた。
「私はね、ケニア人なんですよ。ケニアで生まれて、ケニアで育ちました。イギリスのパスポートも持ってはいるけれど、どこの国の人かと聞かれれば、まず心に浮かぶのはケニアのことです。生まれた時から黒人の隣人に囲まれ、黒人の友人と日々遊びながら育ちました。私がケニア人だと言うと、西欧から来た人たちは必ず驚きますが、私は自分のことを、ケニア人としか思いようがないのです。」
クリスは、白人男性である。
「その後、タンザニアで飛行機乗りをしていた友人が事故で亡くなり、彼を弔うために、彼の墓のある南アに来ました。以来、南アに暮らし続けています。」
彼は話を続けた。
「南アの白人社会は、他のアフリカの白人社会とは、比べることができない特殊なものです。
私が生まれ育ったケニアでも、他のアフリカの国々でも、白人が暮らしてきたのはせいぜい100年程度。あなたは外国人だと言われても、そうだと頷くしかない。しかし、南アの白人社会は200年も300年も、その歴史を遡ることができます。長きにわたって南アに暮らして来た白人が、あなたは何人なんだと聞かれても、なんと答えればいいのでしょう。彼らもまた、アフリカ人なのですから。」
クリスは、こんな例え話もしていた。
「アフリカ全体を大きなバスケットとするならば、南アフリカは、その大きなバスケットの中に入った小さな植木鉢のようなもの。同じバスケットの中にはあるけれど、この植木鉢の中には、周囲とは異なる、また別の世界が入っています。」
* * *
ドラケンスバーグ少年合唱団は、どれだけ断られ続けても、黒人と白人の混声合唱のコンサートを続けてきた。タウンシップをひとりで訪ねた私の存在は、現地の人々にとっては、際立つ異物のようなものだったはずだが、あのアジア人をトラブルにあわせてはいけないと、常に周囲の人々が目を光らせてくれていた。グリーン・マーケット・スクエアでのフリーコンサートを警備する警官は、黒人と白人、マレー人によるチームで編成されていた。コンサートの準備が進むCTICCでは、CTICCの白人の支配人と黒人の副支配人が、常に二人で並んで歩きながら、会場内の準備の進捗を確認していた。
南アフリカでは、誰もがどこかで意識しながら、多様な社会をなんとか維持しようとしているように私は感じる。多様であることは、意識して維持しなければ壊れてしまうことを、極めてはかないものであることを、南アフリカの人たちは知っている。
侵略と入植、強制的な移住と隔離政策といった歴史を経て、南アでは、数百年に渡り様々に異なる人々が同じ国の中に暮らしてきた。この国が持つ多様さは、決して、元来この地に住む人々が望むべくして生まれたものではない。
それでも、結果として生まれたこの多様性は、この国を特徴付ける極めて大きな魅力のひとつだ。これほど多岐にわたる文化を背景に持った人々が共存しているアフリカの国は、ほかにない。しかし、もし、再び多様さを失うようなことが起こるならば、世界の観光客を魅了し続け、世界各国からの様々な拠点が置かれ、アフリカの人々がいつかは訪ねてみたいと思う、アフリカの中で際立った存在感を放つ南アフリカの現在の姿は、全く別のものとなるだろう。
今年、生誕100周年を迎える故ネルソン・マンデラは、かつて、南アフリカを「虹の国」と例えた。様々な人種を抱える様を、彼は虹色になぞらえている。
植木鉢に入った、はかなくも美しい虹色の歌声を、私はこれからも聴き続けていきたい。
(おわり)
<岩崎有一/ジャーナリスト>
アフリカ地域に暮らす人々のなにげない日常と声と、その社会背景を伝えたく、現地に足を運び続けている。1995年以来、アフリカ全地域にわたる26カ国を訪ねた。近年の取材テーマは「マリ北部紛争と北西アフリカへの影響」「南アが向き合う多様性」「マラウイの食糧事情」など。Keynotersにて連続公開講座「新アフリカ概論」を毎月開催中。2005年より武蔵大学メディア社会学科非常勤講師。
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