◆事件語れるまで半世紀
虐殺が収まってからも軍事政権下の韓国では、事件は「アカの島」で起きた「共産主義者による暴動」とされ、遺族や体験者らも長い歳月、沈黙を余儀なくされた。
高さんは済州島で結婚し、夫とともに再び大阪へ渡ったが、事件のことを口にすることはなかった。肉親の死を悲しむ自由すら制限されたのだ。高さんは様々な苦難の中で一生懸命ミシンを踏んで子どものために働き続けた。還暦を過ぎ、一念発起して生野区の夜間中学校に入って文字を学ぶ。学校で自分の体験を初めて語ったことで、教師から作文に書くように勧められ、泣きながらつづった「私が見た4.3事件」は、「部落解放文学賞」の記録表現部門で入選した。
その後、韓国も民主化の中で、99年に金大中(キム・デジュン)政権で「済州島事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」が成立。2003年には当時の盧武鉉大統領が初めて公式謝罪し、済州島での慰霊祭にも参列した。
大阪の遺族会会長の呉さんに誘われ、高さんが済州島での慰霊祭に初めて参加したのは2015年4月のこと。70周年となる今回のツアーでも島内に無数に残る虐殺現場を訪れた。500人の住民が討伐隊に虐殺された島の北部「北村里(プッチョンニ)」、拷問と劣悪な環境で多くの犠牲者を出した「酒精工場跡」、予備検束されて集団殺戮された「ソダルオルム虐殺現場」などを回り、一行は献花を捧げ、犠牲者を偲んだ。今も行方不明になったまま遺体の見つからない犠牲者の存在を目の当たりにした高さんは「叔父たちは遺体が見つかっただけでも幸せかもしれません」とつぶやいた。
4月27日の南北首脳会談について、高さんは「文大統領の思いが実現できれば平和への道を進むことになる。難しいだろうけれど、いずれ祖国が統一してほしい。南北首脳会談がその第一歩であってほしいです」と願っている。(続く)
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