北朝鮮政権は一九九〇年代の半ばから、道徳を特に強調するようになった。発端になったのは九五年一二月に金正日の名前で発表された「労作」(指導者直々の著作)である。「革命の先達を敬うことは、革命家としての崇高な道徳そして義理である」と題された「労作」において金正日は、社会主義圏が崩壊した原因を修正主義者、機会主義者たちが革命の先達の業績を抹殺し、義理を打ち捨てた非道徳的な行為のためだと指摘している。
つまり、道徳の腐敗が思想の変質をもたらしたというわけだ。社会主義圏の崩壊に続いて始まった「苦難の行軍」という大社会混乱の過程で、北朝鮮政権が国民の意識の変化から体制崩壊の危険を意識したことが、道徳問題の重要性を持ち出してきた理由であろう。
実際、「苦難の行軍」期に既存の社会秩序と経済の破綻、過酷な困窮生活を経験して、人々の道徳意識は急速に弱まっていった。家族間でも道徳規範が希薄化し、社会の公共秩序は麻痺。強盗、窃盗、詐欺のようなあらゆる犯罪が巷に溢れた。また、中国との国境地帯では生き延びるために、違法に国境を越える者、逃亡する者が激増し、政権が極度に警戒する外部の情報と文化が流入し始めた。こうした規律意識の瓦解と無秩序を放置することは、当然、金正日体制にとって大きな脅威となる。
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