ゴジラを語り部として日本の戦後史を振り返る連載第2弾。
1954年11月3日、映画『ゴジラ』が公開された。敗戦から9年余り……、日本は焼け野原から復興を遂げつつあったとはいえ、まだまだ戦争の傷跡が色濃く残っていた時代だ。62年生まれの筆者にも、幼い頃に両親と東京・銀座に出かけた際、街角で白装束に身を包み音楽を奏でて物乞いをする腕や足を失った傷痍軍人の姿を見たことを鮮明に覚えている。おそらく54年当時は、日本人のほとんどが戦争経験者であり、悲惨な記憶が社会に満ちていたことであろう。映画を観たことがない読者も多いと思われるので、まずは第1作『ゴジラ』のストーリーに沿って話を進めていきたい。(伊藤宏/新聞うずみ火)
◆戦争被害者として
ある日の夜、太平洋で貨物船「栄光丸」が原因不明の沈没事故を起こし、救助に向かった貨物船も沈没する。その後、大戸島の漁船が生存者を救助したという一報が入るが、彼らもまた消息を絶ってしまう。「いきなり海が爆発した」という生存者の証言から「浮流機雷か? 海底火山脈の噴出か!」という見出しの新聞記事が出される。その後、筏にすがって大戸島に流れ着いた漁船の生存者が、巨大な何かに沈没させられたと証言する。
ここで浮流機雷について説明しておこう。機雷とは、水中に設置されて船が接近、または接触したとき、自動または遠隔操作で爆発する水中兵器のことだ。アメリカ軍は第2次世界大戦中、日本本土攻撃のために実施した45年3月から8月までの「飢餓作戦」で、のべ1200機のB29によって計1万発の沈底機雷(海底に沈める機雷)を日本近海の海上交通路に投下した。米軍の狙い通り船舶の被害が増大し、日本の海上物流は麻痺状態となった。日本側はこの機雷の除去に20年以上を費やす事態となる。50年に勃発した朝鮮戦争では、米軍の使用した浮流機雷が流され津軽海峡に入り、青函連絡船が一時、夜間運航停止に追い込まれている。
さて、島に取材に来た新聞記者に対して、古老は大戸島の伝説の怪物「呉爾羅(ゴジラ)」の仕業だと語った。その夜、島を台風が襲うが、不気味な足音を響かせた何かが島に上陸し、家屋を破壊して住民が犠牲となった。島の被害状況が異常であったため、政府は調査団を派遣することを決める。調査団には古生物学者の山根恭平博士、娘の恵美子らが加わっていた。大戸島に到着した調査団は、村の破壊された箇所から放射能を検出し、さらに信じがたいような巨大な足跡も発見する。
調査の際、ガイガーカウンターで放射能を測定する科学者と、調査に同行していた恵美子の恋人の尾形秀人との間で、次のような会話が交わされる。
尾形「先生、放射能の雨だとしたら、向こう側の井戸だけが助かるなんてことはあり得ないはずですね」
科学者「うーん、そうなんだよ。どうしてこの付近の井戸だけが放射能を感じるんだか。どうも腑に落ちないね」
当時は核兵器保有国による大気圏内核実験が頻繁に行われており、放射能を含んだ雨(放射能雨)が大きな問題となっていたことがうかがえる会話だ。
突然、島に半鐘が鳴り響き、不気味な足音が聞こえる。何事かと足音が聞こえる方に向かう人々に対し、一足先に来ていた山根博士は「私は見た。確かにジュラ紀の生物だ」と
語る。その直後、巨大生物が山の尾根から頭をもたげ、人々に向かって咆吼する。逃げまどう人々を尻目に、巨大生物は砂浜に足跡と、尾を引きずった痕跡を残して海に消えていった。