◆越境者の群れ
朝中国境地帯での取材では、とにかく一人でも多くの北朝鮮脱出者に会うことを心がけた。そして、国境の川の豆満江と鴨緑江沿いの都市や村を回って、いつごろから、どれぐらいの数の北朝鮮人が越境してきたのかを聞き取り調査することにした。この取材は97年夏から98年末まで、断続的におよそ150日間(うち北朝鮮国内に25日間)に及んだ。
結果的に見ると、中国に越境してくる人がもっとも多かった時期と重なっており、北朝鮮から越境者を生み出す主要因であった「大飢饉」の把握に大いに成果があった。
取材は越境者のインタビューと、国境付近の村の調査である。村の調査は、豆満江側は下流の琿春市から上流の崇善鎮までの12地点。鴨緑江側は上流の長白県など5地点を選んだ。
97年夏から98年末までの時期、どれほど凄まじい越境ラッシュだったのかを、国境沿いの集落に住む中国朝鮮族の証言を取材したメモからいくつか振り返ってみる。
「初めて見たのは95年の11月。増えはじめたのは96年からで、97年に入ってからは毎日のように渡ってきた。そして、97年末に豆満江が結氷して以降はうちの村だけで一日平均40人は渡ってきているのではないか」(和龍県徳化鎮南坪村の前村長、季グァンシルさん)
「97年に入ってから急に増えた。毎日来る。一家4、5人で渡ってくるケースが多い。渡河に失敗して溺死した人の死体を埋葬したこともある」(図們市新基村の金哲虎さん)
「毎晩数え切れないぐらいの北朝鮮人が渡ってきて、市場のゴミを漁(あさ)っていく。街の裏山にビニールを張って野宿している人も多い」(長白県の住人)
「この村だけで去年(97年)は1ヵ月平均40人から50人、今年はそれが1日に4、50人だ」(和龍県徳化鎮吉地村の朴光基さん)
「毎日やってくるのは確かだ。朝鮮の生活が悲惨なのを知っているから、村人は食事を腹一杯食べさせ、衣服を与えてきた。けれど、こう大量に来たのでは親切にするのにも限度がある。自分の着る服、履く靴もなくなってしまう。かといって当局に申告するわけにもいかない。村人のなかには音を上げて引っ越してしまった家もあるぐらいだ」(龍井市開山屯鎮の申東勲さん)
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