東京・大久保で行なわれたヘイトデモ(2013年、撮影:yekava roboto)

■「内戦」~ネオナチやフーリガン 社会に忍び寄るある種の状況を、詩人の言葉で表現

新聞やネットで日本の政治状況に触れるたびに「もはや底が抜けている」と感じている人は少なくないのではないか。最近、しきりに思い出されるのが、戦後ドイツを代表する詩人・批評家であるエンツェンスベルガーが冷戦終結直後の1993年に書いた『冷戦から内戦へ』(晶文社)というエッセイだ。(加藤直樹)

タイトルの通り、「内戦」についての考察である。だがエンツェンスベルガーが取り上げる「内戦」は、当時、多発していた民族紛争だけを指しているのではない。ドイツのネオナチやフーリガンまでを「内戦」という言葉で論じている。つまり彼が言う「内戦」とは、文字通りのそれではなく、社会に忍び寄るある種の状況を、詩人の言葉で表現したものだ。

彼は、そうした意味での現代の「内戦」の担い手の特徴を、「自己閉鎖」「自己喪失・信念喪失」「自己破壊」の三つに見ている。

「自己閉鎖」とは、自分たちの行動について世の人々に納得させることへの無関心である。「かつては相対峙するゲリラ戦士はいずれの側も、イデオロギーの旗を高く掲げ…自己意識を堅持していた。いま残っているのは、武装した暴徒集団にすぎない」。

「自己喪失・信念喪失」とは、彼らが、自ら掲げている主張を実際には信じていないということだ。「イデオロギーはただの仮装にすぎない。…歴史には、彼はなんの興味もない。…(ネオナチの)『ドイツ精神』といったスローガンにはおよそいかなる内容もなく、それは、頭のなかの空虚を埋める道具立てにすぎぬ」「歴史的に蓄積された衣装のなかからの、古ぼけたぼろにすぎない」。彼らは古めかしい愛国的なスローガンを掲げるが、口で言うほどそれを本気で信じているわけではないということだ。

彼らにとって本当に大事なのは、とにかく何かを憎悪し、攻撃することだという。

「憎悪さえあればよい」「近年のナショナリストたちが関心をもつのは、もっぱら、諸民族間の相違のなかにひそめられている破壊的な力である。かれらの口にする民族自決権とは、あるテリトリーにおいて誰が生きのびてよく、誰が生きてはならないか、を決定する権利にすぎない」

「ある八百屋が隣の八百屋より繁盛していたり、誰かの服装が違っていたり、誰かの話すのが外国語だったり、誰かが車椅子に乗っていたり、ある女性がスカーフをかぶっていたり、するだけで十分なのである。どんな差異であれ差異は、生命の危険になりかねない」

また、エンツェンスベルガーは、誰かを攻撃するとき、かつてのような特別な指導者や組織はもはや不要になったとも言う。ゲシュタポやGPU(ソ連の国家政治保安部)のような弾圧者の役割も、今では「幼児的なクローン人間ども」の群れが引き受けてくれる。

彼らの憎悪は、もっぱら弱い者に向かう。「好んで女や子どもを犠牲にする…いたるところで、無防備のひとたちがまっさきに抹殺されている」。

エンツェンスベルガーは、こうした攻撃性が、憎悪がもたらす全能感のなかで発揮されていると指摘しつつ、その攻撃性の中に他人だけでなく「自分の憎たらしい生命」に向かう「自己破壊」が潜んでいることを見抜く。愛国の旗を掲げる彼らは、実は「自分の未来はどうでもいいのだから、自分の国などもどうでもいい」人々なのだ。

エンツェンスベルガーの視線は、あまりに悲観的に思える。だがその背後には、少年時代にナチス政権を経験した彼の危機意識がある。

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