「ジャンマダンに行くと、無いものが無いんです。コメだって肉だって酒だって何でもある。衣服や薬もあるし、パンや麺類を売る食べ物屋だってある。ほとんどは中国から入ってきた品々です。でも値段がべらぼうに高くて手が出ないんです」
北朝鮮各地から時期を異にして出てきた越境者・難民たちが、異口同音に言う。餓死者が100万単位で出ている国で、市場に物が豊富にあるということを、どのように理解したらよいのか?直接目にするまでは、その光景を頭に思い浮かべるのは困難だった。
ジャンマダンという朝鮮語は、直訳すると「市の広場」ほどの意味である。このジャンマダンの増殖について難民証言を基に説明しておこう。
もともと、配給以外で民衆が食べ物を手に入れられる唯一の例外は、農民市場と呼ばれるマーケットだった。農民市場では農場員が自留地(個人で耕作が許された土地)でできた野菜や卵などに限り当局公認のもとに販売できる。それも、たとえば一のつく日、五のつく日だけ―一日市、五日市のように―月に数度開かれるだけの小規模なものだったという。
しかし、1993年ごろから深刻になった食糧難によって配給制度が破綻をきたし、人々はしかたなく農民市場で禁制品の食糧の売買を始める。以来、農民市場は瞬く間に増殖し、常設市と化していった。呼び名も、いつしか全国で農民市場からジャンマダンに変わっていく。
96年ごろまでは、この非合法の売買が行われるジャンマダンは、度々当局の取り締まりが行われていたようで、禁制品である食糧や家庭用工業製品は没収されることも多かったという。だがそれも、
「餓死者が大量に出たので、97年からは半ば黙認状態になった。ジャンマダンがなくては生きていけなくなった」(平安南道出身、20代の男性)
という。こうして、農民市場は姿形、規模を変え自然と増殖して、ジャンマダン=闇市場と化したのである。
97年2月に北京の韓国大使館に亡命を求めて駆け込んだ黄長燁(ファンジャンヨプ)元労働党書記は、96年12月に金正日が金日成総合大学で行った演説記録を持ち出していた。演説のなかで金正日は農民市場について触れている。
「食糧問題を(人民に)自力で解決させるとなると、農民市場と商売人たちだけが栄え、人々の内に利己主義が助長され、党の階級陣地が崩れることもありえる……」
衣食住を国家が保障するという「社会主義の優越性」の観点からも、またカロリー源を国家が握ることで民衆を統制支配するという観点からも、金正日は農民市場の増殖―闇市場化を資本主義の萌芽とみて、危機感を抱いていたことが窺われる。
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