◆「政府が作った法律よりも信仰をとる」
禁止措置以降、「信仰か、学業か」をめぐって家族との関係を壊してしまった女子学生もいるという。だがアハメッドさんは娘の信念と信仰心を支えたいと話す。
「トルコは近代化の過程で、“西洋人以上に西洋人であろう”とする人たちが政府の中枢を占めてきました。国是の世俗主義のもと、イスラムが政治の道具にされ、信仰がないがしろにされました。そのなかで敬虔な信徒が苦しみました。いま、教育という現場で娘もその犠牲になっています」。
ゼヘラの妹、クブラもまた、政府の教育政策の影響を受けていた。97年に初等義務教育の学年システムが改編され、宗教上、女子がスカーフをかぶる年齢にあたる12~13歳に差し掛かってしまった。学校側は、校内ではスカーフを脱ぐよう求めた。このためアハメッドさんはクブラを学校に行かさない判断をした。勉強は自宅で継続したという。
「義務教育の初等教育に通わせないのはトルコの法律では“違法”になります。その意味で私は罪を犯したことになります。でも、望まないことですが、もしアッラーに対して罪をなすことになるなら、政府が作った法律を破ることを選びます」。
アハメッドさんはそう言った。
◆世俗主義とイスラムとでつねに駆け引きが続いてきたトルコ
こうした選択をするのは、トルコのいわゆる「標準家庭」ではない。だからといって、ゼヘラの家族が特殊かというと必ずしもそうとは言えなかった。トルコでは世俗主義とイスラムとでつねに駆け引きが続いてきた。なにより、エルドアンもイスタンブール市長時代の97年、政治集会という公の場でイスラム詩を朗読したというだけで実刑判決を受け、服役している。
釈放後、エルドアンは、イスラム政党の党首になり、選挙で勝利を重ねて、ついには大統領にまでなった。世俗主義の最大の擁護者たる軍部の牙城までも切り崩し、軍部クーデター鎮圧の勢いにのって、トルコ史上、もっとも強権的な大統領と呼ばれるまでになっている。
「イスラム回帰」とも呼ばれるエルドアン政権の変革のもと、教育現場でのスカーフも着用が認められるようになった。エルドアン大統領は、自身も卒業したイマム・ハティップ校のさらなる支援を表明している。
イスラム政党やエルドアンの躍進を支えたのも、ゼヘラのような家族たちだった。(つづく) 4へ >>>