沖縄戦で生徒の半数以上が犠牲となったひめゆり学徒隊の生き残り、新川初子さん(92)=大阪府豊中市=は、戦争の語り部として、今は亡き学友たちの声なき声を代弁し続けている。(矢野宏・栗原佳子/新聞うずみ火)
◆神風を信じて
太平洋戦争末期、国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦となった沖縄戦。日米合わせて20万人以上の命が奪われ、うち沖縄県民は民間人9万4千人と軍人軍属2万8千人が亡くなった。県民の4人に1人にのぼる。軍人軍属は「防衛隊」や男子学生の「鉄血勤皇隊」、女子学生の「学徒看護隊」なども含まれる。
「たくさんの友人が亡くなりました。あのサンゴ礁の下、声なき声で叫んでいる。その声を私は声にしなければならないと思います」
新川初子さんは関西ひめゆり同窓会の会長。92歳のいまも、学校などで戦争体験を語り継いでいる。6月23日は毎年、ひめゆり同窓会の慰霊祭に参列。時代の空気に強い違和感を覚えながら、今年も亡き学友や恩師らの前で祈った。
警官だった父親の赴任地、京都で生まれ育った。父の転勤で15歳の時、一家で沖縄に帰郷。県立第一高女、さらに併置校の沖縄女子師範で学んだ。
44年3月、第32軍が創設されると、授業も軍作業などに費やされるようになった。陣地構築や壕掘り、小禄の飛行場づくりに通う日々。45年3月23日、沖縄の周辺海域におびただしい米艦船が出現し、空襲もはじまった。翌24日未明、学校長は「ついにお国のためにご奉公するときが来た」と訓示。南風原陸軍病院へ動員された。5キロの道を歩き、たどり着いたのはこんもりした山。30本の横穴が張り巡らされた「病院」だった。最上級生の新川さんらは29日夜、ろうそくが揺れる三角兵舎であわただしく卒業式に臨んだ。
4月1日、米軍は沖縄本島中部の西海岸から上陸。数日中に中部一帯を占領し、本島の南北に進軍した。特に、首里の32軍司令部へと南下する米軍と日本軍の攻防は熾烈を極め、陸軍病院には重症患者が次々と運び込まれた。
「もう目を覆うばかりの患者ばかり。最初は外科、内科、伝染病棟と三つだったのですが、米軍上陸後は間に合わず、すべて外科になりました。ウジ虫が傷口を食む音。脳症の患者の叫び声。血とうみと汚物と汗の混じったすさまじい臭い。『はい』『ちょっと待ってください』『すぐ持っていきます』『すみません』。朝から晩までいつもこの四つの言葉を繰り返していました」
負傷者は増える一方。奥へ奥へと壕を掘り進め、ベッド用の丸太も山で切り、運んだ。神風が吹くと信じ、必死に働いた。