沖縄戦で生徒の半数以上が犠牲となったひめゆり学徒隊の生き残り、新川初子さん(92)=大阪府豊中市=は、戦争の語り部として、今は亡き学友たちの声なき声を代弁し続けている。(矢野宏・栗原佳子/新聞うずみ火)
◆「捕虜にはなるな」
45年5月、首里の32軍司令部は持久戦のために南部撤退を選択、病院も閉鎖されることになった。負傷していた新川さんも学友らとともに撤退を余儀なくされた。
防衛隊、同級生や後輩が交代で新川さんの担架を担いだ。歩くことができず、迷惑をかけている自分が辛かった。隠れ場所を探しながら南部へ下る。「4、5人でいいから入れて下さい」。教師がそう懇願すると日本兵が抜刀して威嚇することもあった。住民を壕から追い出す日本兵。ぐずる赤ちゃんを抱いた母親に「殺すぞ」と脅す日本兵もいた。「地獄でした」。
南部の壕にやっとたどり着いたのもつかの間、6月18日、解散命令が下った。「用がなくなったから自由行動をとれ」というのだ。
「先生は、4、5人ずつ敵中突破しなさいとおっしゃいました。命だけは大切にしなさい。でも捕虜にだけはなるなと」
新川さんはやっと伝い歩きができる程度。それでも、友人たちの姿を見失わないよう裸足で必死について行った。尖ったサンゴ礁は剣山のよう。晴れた日の砂浜は、火の上を歩いているようだった。
「足の裏はずる向けにむけましたが、それでも歩かないといけない。胸の芯まで痛いけど、悲鳴も出せない。自分1人だけ捕虜になったら大変だから必死でした。ハワイの『慰安所』に連れていかれると信じていたのです」
海には米艦船。昼間は岩陰にひそんだ。一緒に行動していた学徒は8、9人。足の踏み場もない死体。その持ち物をみんなで探った。手りゅう弾が欲しかった。
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