◆インドネシア・バリ島へ移住
3か月後、実家そばの大谷海岸に父の遺体が打ち上げられた。服装や時計、歯の形状から父親と判別できたという。火葬した時、遺骨に砂は混じっていなかった。「泥水を飲んでいない。津波でおぼれ苦しんではいないはず」。そう自分に言い聞かせた。
木村さんはその後、仕事を辞め、被災者の支援を始めた。しかし活動場所の放射線量が非常に高いことが分かった。心労も重なり体調を崩し、活動を中断。友人の勧めでインドネシア・バリ島に渡った。そこにはすでに福島などから20家族が避難していたという。島の生活で体調は徐々に回復、木村さんは自宅を兼ねた小さな保養所を始めた。日本から東北の被災者もやってきた。観光に出るよりも、部屋でゆっくりくつろぐ人が多かったそうだ。
◆災害への備えと同時に被災者の現状に心を寄せよう
気仙沼の母親は仮設住宅を出て、山側に建てた家に暮らす。近隣住民は8割がお年寄りで、3キロ先のスーパーへ買物に行くにも苦労する。病院は一日がかり、タクシーで往復6000円にもなる。姉と交代で母の面倒を見るため、木村さんはバリと気仙沼を往復するようになった。震災から時間が経つとともに、被災者のことが忘れられていくように感じるという。
大阪の地震、そして西日本豪雨被害。自然災害が起きるたびに、私たちはどう向き合うべきなのかと考えさせられる。「情報を集め、迅速に行動できるようにすることが大事。分かっていても、それがなかなかできないもの」と、木村さんは話す。
災害直後の救出活動に加え、その後の被災者の生活支援などにつなげていくのも復興と防災の重要な柱だ。被災者の声に耳を傾け、そこから得られた教訓を、将来の防災に役立てて行く。関西では阪神淡路大震災を知らない世代も増えた。いつか起こる、いや必ず起こる災害に備える取り組みを日頃から考えるのと同時に、被災者の現状に、もっと心を寄せたいと思う。
(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2018年7月24日付記事に加筆修正したものです)