第1作『ゴジラ』のポスター(復刻版)

 

人々の多大な犠牲の末、敗戦という形で戦争を終えてから73回目の8月を迎えた今年、広島・長崎の原爆忌、そして各地で開催された戦没者追悼式は、天皇の退位で来年から元号が変わることから、「平成最後」のものとして報道された。「8月ジャーナリズム」という言葉があるように、毎年この時期は戦争や原爆に関する記事や番組が巷にあふれるが、過去を振り返り、改めて現在の平和の尊さをかみしめることは、私たちが再び過ちを繰り返さないために不可欠な行為なのだ。

 だが、敗戦直後、そして第1作『ゴジラ』が公開された1954年当時と比べて、戦争や原爆に対する今の社会の意識は、明らかに変化している。そして、戦争体験者や被爆者が高齢化し、他界していく中で、私を含めた「戦争を知らない世代」に記憶を継承していくことが年々困難となっているのが現状だ。それどころか、改憲をめぐる政治家の発言や、それを支持する人々の活動などが勢いを増し、戦前に回帰するかのような動きがあからさまになっている。(伊藤宏/新聞うずみ火)

◆随所で語られる平和主義

そうした社会状況は、2016年までに公開された29作品のゴジラ映画にも反映されてきた。詳細は今後の連載で明らかにするとして、今回は第1作を離れて01年に公開された、第25作『ゴジラ×モスラ×キングギドラ大怪獣総攻撃』に触れてみたい。

この作品に登場するゴジラは、シリーズの中で異彩を放っている。その目は白目であり、怪獣というよりは鬼や妖怪をイメージさせる形相となっている。出自も第1作から貫かれてきた太古の生き残りの恐竜が、度重なる水爆実験で巨大化したというものではない。

主人公のテレビレポーター立花由里に、謎の老人(伊佐山嘉利とされる)は、「ゴジラは砲弾が当たっても死なん。古代の生き残りの恐竜に、原水爆の放射能が異常な生命力を与えたとしても、生物であるなら死ぬはずではないか。ゴジラは強烈な残留思念の集合体だからだ。ゴジラには太平洋戦争で命を散らした数知れぬ人間たちの魂が宿っているのだ。救われない無数の魂がゴジラに宿ったのだ。ゴジラは彼らの化身のようなものだ」と語る。

そして、「でも、ゴジラが戦争で犠牲になった人の化身なら、どうして日本を滅ぼそうとするんですか?」という由里の問いに、「人々がすっかり忘れてしまったからだ。過去の歴史に消えていった多くの人たちの叫びを! その無念を!」と答えるのであった。戦争体験者や遺族の言葉には、必ず「二度と悲惨な戦争を起こしてはならない」という強い意志が込められている。ましてや、戦争によって命を落とした人々の無念は計り知れない。そのことを私たちの多くが忘れていることへの警鐘が、ゴジラだという設定なのだ。

ちなみに、この作品でゴジラと対峙するのは自衛隊ではなく、「第2次大戦後、平和憲法のもとに創設された防衛軍」という架空の組織であり、その防衛軍が経験した唯一の実戦が1954年のゴジラとの戦いであったという想定だ。日米安全保障条約にあたるものも、「日米平和条約」に置き換えられている。明確に語られてはいないが、防衛軍が相手にするのは他国家ではなく、ゴジラをはじめとした巨大生物であったと推測できる。由理の父である防衛軍の立花泰三・准将に「平和な時代がゴジラの恐怖を忘れさせてしまったようだ」「実戦経験なきことこそ最大の名誉でした」と語らせるなど、随所に日本国憲法の平和主義を想起させる場面があるのも、この作品の特徴だ。

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