◆父親も現地召集

ところが45年5月、関東軍の兵士が列車で南下していく光景を見た。代わって街の男性が「根こそぎ動員」されていった。妹の芙美子さんが生まれた直後、父も徴兵された。
8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を破り、満州への侵攻を始める。村上さんは「ソ連の戦闘機が飛んできたら知らせるように」と言われ、外に立って北の空を眺める監視要員を務めていた。
そして8月15日、「大事な放送があるから聞きなさい」と言われ、大人たちに交じって玉音放送を聞く。

「意味がわかりませんでしたが、戦争に負けたことはわかりました。僕の戦争はこの『敗戦』から始まるのです」

ソ連兵が四平にも入ってきた。「女を出せ」と、暴行と略奪を繰り返した。

「一度、家にソ連兵2人が来たことがありました。母親がいない時で、私はドアの前に立って『うちには何もない』と言って追い返そうとしたのですが、弟たちは部屋の隅で震えていました」

徴兵された父の行方はわからないままだった。会社から支給されていた給与も凍結され、母はがんもどきを作っては繁華街で売り歩いた。村上さんは妹のお守りを任されたという。

「いつも背負っていたので、どんな表情をしていたのか覚えていないのです。写真もありませんから」

満州などの「外地」からの引き揚げは困難を極めた。敗戦直前、日本政府は「外地にいる居留民はできる限り定着の方針を執る」と棄民政策を打ち出しており、敗戦後も「国籍を離れるもやむを得ず」と発表していた。

四平では46年3月にソ連兵が撤退すると、中国共産党軍が進駐してきた。5月には中国国民党軍との内戦が再開。連日、鉄砲や機関銃、大砲の音が鳴り響き、目の前で戦闘が繰り広げられた。

満州の日本人会は日本へ密使を派遣し、吉田茂外相を通じてGHQ(連合国軍司令部)のマッカーサー司令官に現状を伝え、引き揚げに協力してもらえるようを直訴した。その結果、葫蘆島(ころとう)までは中国側が、葫蘆島からの帰国は米国側が担当することになったという。続きを読む>>>

★新着記事