◆いつもと違う薬
引き揚げ船が着く葫蘆島港までは400キロ。無蓋車の中で、母が「芙美子、芙美子」と呼ぶ声だけが村上さんの記憶に残っていた。
「僕が妹を殺したことと、娘を見殺しにするしかなかったことがショックだったのでしょう、母は寝たきりになっていたのです」
母親は葫蘆島港近くの病院に入院し、村上さんが介護した。46年8月6日、薬を飲ませていた村上さんに、いつもと違う粉薬が医師から手渡される。
「母に飲ませると、口から泡を吹きだしたのをはっきりと覚えています。回復の見込みがない病人は医師の判断で安楽死させられたのでしょう」
2人の弟とともに、母の遺体に寄り添って寝たのを覚えているという。
「翌日、海の見える小高い丘に母を埋葬しました。母の荷物の中からお気に入りの着物を遺体にかけてやり、弟たちと土をかぶせました。弔うように鳴り響いた汽笛の音が今も耳に残っています」
村上さんらを乗せた引き揚げ船が長崎・佐世保に到着したのは9月10日のこと。母の実家がある京都府亀岡市を目指した。京都駅からは府の職員らしき人が連れて行ってくれ、祖母に引き合わせてくれた。
引き揚げで衰弱した9歳の弟が5カ月後に病死する。結核性髄膜炎。亡くなる直前、「芙美子が……」とつぶやいた。
シベリアに抑留されていた父親が帰国したのは48年のことだ。父とは多くを語ることはなかったという。
◆沈黙経て追悼の旅
「母を失ってから大声で心から笑ったり、泣いたりした記憶がないのです。感情が奪われてしまっていたのかもしれません」
母と妹を殺めたことへの罪の意識を背負い、長い沈黙を続けてきた村上さん。「なかったことにはできないから」と、京都市役所を退職後、「旧満州・四平小学校同窓会記念誌」に自らの体験を記した。その最後は、母と妹からの遺言とも思える言葉で結んでいる。
<八紘一宇…アジアの人々への圧政だったのね。これからは、アジアの人々と仲良くね。あんな加害行為もやめようね。私たちの命の分も生きて! あなたの子や孫や曾孫。
いつまでも豊かに、平和に暮らせるよう! あなたは努力して!>
「戦争に正義はない。癒えることない憎しみと悲しみの連鎖があるだけ」という村上さん。今年の母の命日、帰国後初めて中国の葫蘆島を訪ねた。海も空も真っ青だった。
「72年前、埋葬地から見えた海も空もねずみ色でした。私の記憶はグレー一色でしたが、ようやく塗り絵のように青い風景に変わりました」
(終わり)