◆手足や肉片が飛び散り、土砂で生き埋めの人たちから助けを求める叫び声が飛び交っていた
太平洋戦争の終戦前日、米軍による最後の大阪大空襲で数百人の命が奪われた「京橋駅空襲」の被災者慰霊祭が8月14日、大阪市城東区のJR京橋駅南口にある慰霊碑前で営まれた。猛暑の中、参列した遺族ら250人が犠牲者を悼んで静かに手を合わせた。(矢野宏・新聞うずみ火)
73年前のこの日、米軍のB29爆撃機145機が来襲。攻撃目標は、大阪城内にあった大阪陸軍造兵廠。戦時中には6万5000人が兵器を作っていた東洋一の軍需工場だ。B29爆撃機は650発もの爆弾を次々に投下、造兵廠は壊滅的な被害を受けた。
攻撃の最中、1トン爆弾が近くの国鉄京橋駅を直撃した。駅舎は吹き飛び、線路は空に向かって折れ曲がり、駅周辺も焦土と化した。死者は身元がわかっているだけで210人、一家全滅したケースもあり、実際の犠牲者は500人とも600人とも言われている。
64回目を迎えた式典では、毎年、空襲体験者を招いて平和学習を行っている大阪市立聖賢小学校の6年生が作文を朗読した。「私の幸せは食べること、友達と遊ぶこと、笑うこと。それらをすべて奪うのが戦争です。みんなが幸せになるためにも戦争はしてはいけないと思います」
このあと、法要が営まれ、参列者が犠牲となった人たちに祈りを捧げた。
今年夏、聖賢小で空襲体験を語った照屋盛喜さん(85)は当時12歳。駅の北東にあった船舶部品工場に学徒動員され、空襲に遭った。逃げ込んだ防空壕は爆音とともに大きく揺れ、そのたびに死を覚悟したという。
空襲警報が鳴りやみ、駅に駆け付けると、吹き飛ばされた駅舎の石垣や柱、壁などが乗客を押しつぶしていた。あちこちに手足や肉片が飛び散り、土砂で生き埋めになった人たちから助けを求める叫び声が飛び交っていた。
空き地に掘られた穴に遺体が運び込まれ、次々に火葬されていく。照屋さんもトタン板を敷き、遺体を並べる作業を手伝った。そこに泥まみれの母親の遺体が運ばれてきた。よく見ると、赤ちゃんを背負い、小さな女の子を抱いたまま死んでいたという。
「女の子の土を払うと、『ギャー』という声が聞こえたんです。どうしたらいいですか、と近くの兵士に尋ねると、あごをしゃくって『穴へ入れろ』という。その女の子が私の6歳下の妹と重なって胸がしめつけられました」