◆「命ある限り、大阪で起きた戦争の悲劇を後世に伝えたい」
太平洋戦争末期、8回を数える大阪大空襲で最も凄惨な無差別攻撃と言われる第3次大空襲から74年となる6月7日、旭区の城北公園にある「千人つか」近くの常宣寺で慰霊法要が営まれ、遺族や地元住民ら約70人が参列した。(矢野宏・新聞うずみ火)
<大阪大空襲>慰霊法要 空襲の記憶語り継ぐ (矢野宏・新聞うずみ火)
淀川堤防に建てられた「千人つか」(6月大阪市で撮影・矢野宏)
74年前の6月、大阪は1、7、15、26日と4回の大空襲に見舞われ、街は焼け野原になった。大空襲とは、B29爆撃機が100機以上来襲した空襲のことで、大阪は8回を数える。
大阪大空襲は1945年3月13日深夜から14日未明にかけての第1次大空襲が広く知られているが、それを超える被害を出したのが6月の大空襲だった。B29による焼夷弾攻撃のほかに、当時世界最強と言われた戦闘機P51ムスタングが硫黄島から飛来し、逃げ惑う市民を狙い撃ちした。
7日の第3次大阪大空襲では午前11時20分から1時間半、409機のB29が来襲。大阪市北東部、都島区や旭区、淀川区、東淀川区、福島区、北区、豊中市などに焼夷弾と1トン爆弾を次々に投下し、138機のムスタングが低空飛行で機銃掃射を繰り返した。この日の死者2759人、重傷者は6682人に上る。
城北公園に逃げ込んだ人たちも狙い撃ちされ、犠牲者の中には徳島県から軍需工場に学徒動員された女学生もいた。
「米軍機は低空飛行で木の下に隠れている人を機銃掃射するので、頭を打ち抜かれた人、手足を飛ばされた人など、地獄絵図でした」
法要で、東浦栄一(90)さんが当時の惨状を振り返る。
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