福島県南相馬市に転居し、昨年から演劇活動を再開した作家・柳美里さんの新作公演『ある晴れた日に』が、10月30日から同市・小高を皮切りに盛岡と仙台で上演され、11月7日に千秋楽を迎えた。

柳さんは昨年、南相馬市小高に本屋「フルハウス」を開店。その奥の自宅倉庫を改造して小劇場「La MaMa ODAKA」(ら・まま・おだか)を立ち上げた。この小劇場を拠点に、自身の劇団・青春五月党を四半世紀ぶりに復活させ、昨年はすでに2作品を上演している。今作を含めいずれも東日本大震災を背景とし、地域の人々との関係性のなかから生み出された作品だという。

福島第一原子力発電所から20キロ圏内。避難指示が解除されて間もない小高に家族と共に移り住み、本屋と劇場を立ち上げた経緯、そして今後の展望を柳さんに聞いた。(大村一朗/アジアプレス)

作家・柳美里さんは福島県南相馬市に2015年に移住。昨年、旧警戒区域の小高区に本屋「フルハウス」を開店した(撮影:大村一朗/2019年10月)

◆閉ざされる前の小高へ

Q:小高とはもともとどういう繋がりがあったのですか?

柳: 最初に来たのは2011年4月21日です。小高が警戒区域になる前日にこちらへ来て、閉ざされてしまう前に見ておこうと思い、20キロ圏内を歩いたんです。それから間を置かずに5月のGW、7月は開催が危ぶまれていた相馬野馬追を見に来ていたら、地元の臨時災害放送局・南相馬ひばりFMの今野聡さんから、南相馬に通って来ているのならラジオに出てもらえないかと声がかかって、2012年の元日に原町のCOCO'Sで初めて顔を合わせて話を聞きました。〔他所から来て〕私が発信するというのはあまりやりたくなくて、地元の方のお話を伺うという番組ならばやりたいですということで、「柳美里のふたりとひとり」という番組が2012年の2月から収録が始まり、2018年の3月25日まで、閉局するまで続いて、600人の方のお話を収録したんです。

◆聞き手としての「共苦」

Q:しばらくはラジオ番組のために南相馬へ通っていらしたんですね。

柳: ラジオは毎週金曜日の8時半から30分間の番組ですけども、収録なので毎週通う必要はないんです。それでも月に1度、1週間ぐらい滞在して何本か収録するというスタイルで鎌倉から通っていたんですけど、臨時災害放送局という性質上、ノーギャラで交通費も宿泊費も自分持ちです。最初2012年の元旦にCOCO'Sでお話したときは、閉局するまで続けますと言って話を受けたんです。臨時災害放送局というのは、臨時に炊き出しとかボランティア活動の募集とかそういう、大きな災害が起きた時に災害の被害を軽減するためのラジオ放送局なので、通常は2ヵ月とかそんなに長くないんですね。今野さんからは、まあ長くても1年ですと言われて、それで受けたんです。ところが、災害の度合が大きく、仮設住宅に避難された方も多いですし、原発事故の避難指示も長く続いたので、だいたいいつも前年の12月に「柳さん来年も続きます」と電話がかかってくるんです。だから先が見通せないんですね。それで結局6年延びた。これを継続するためには引っ越さないと時間もお金も厳しいと思ったんです。

柳: もう一つは、毎回住民の方のお話を聞いていると、当時はまだ除染のさなかだったので暮らしの中に苦悩がある。帰る、帰らない、帰っていいのか帰らない方がいいのか。小高は原発事故の前、約13000人いたのが今3620人で、まだ揺らいでいる方が多いんです。ここ〔南相馬〕が危険だというわけじゃないんだけど、私は鎌倉に自宅があって、言ってみれば安全圏にいる。聞き手として、生活の場を移した方がいいのではないか。シンパシーという言葉がありますよね。日本語で共感という言葉に訳されるんですけど、語源的には共苦というのが近いんです。「共に苦しむ」ですね。絆とか頑張ろうとか寄り添うとかいろいろな言葉が震災後にたくさん出たけれども、出発が共苦でなければそもそも話が聞けないのではないかと思って2015年4月に〔南相馬市原町区に〕引越しました。
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