「ここに防空壕がありました」と話す小林さん。兵庫・明石空襲で両親が亡くなった防空壕の跡地にて(撮影・矢野宏)

新型コロナウイルス禍で迎えた戦後75年。2歳の時に明石空襲で両親を亡くした小林弘さん(77)=神戸市西区=の記憶に耳を傾けた。(新聞うずみ火・矢野宏)

◆防空壕崩れ生き埋めに

JR明石駅から車で北へ6分ほど。兵庫県立明石公園の北側を切り開いて造成した墓地「玉津南墓園」がある。

「うちの防空壕があったのはこの辺りやわ」

小林さんの視線の先には丘陵の斜面があるだけだが、父親がここに横穴を掘って頑丈な防空壕をつくっていたという。
75年前の1945年6月26日朝、明石郡玉津村(現・神戸市西区玉津町)に空襲警報が鳴り響いた。当時、小林さんは2歳。両親と兄、姉、妹、それに母方の祖父母との8人家族。父の正一さんは呉服商を営んでいた。

村人の多くが小学校へ避難するなか、両親は子どもたちを連れ、足の不自由な祖母をリヤカーに乗せて大谷川を越え、山の防空壕へ避難した。
防空壕の中には小林さんと兄と姉、祖父母が入っていた。母は生後4カ月の妹を抱き、父と戸板と布団をかぶり、防空壕の壁にもたれていた。近くでB29爆撃機から投下された爆弾がさく裂した……。

空襲警報が解除され、村に人々が徐々に戻ってきた。一人の村人が気づいた。小林さん一家が戻っていない。

「小林の正一あん、山や!」

消防団員らが現場へ駆けつけると、両親は爆弾の破片を全身に受けて死んでいた。父は42歳、母は36歳だった。父の自慢の防空壕は爆風で崩れ、小林さんらが生き埋めになっていた。

「誰も気づいてくれなかったら、あの日にみんな死んでいたでしょう。日ごろから父は村の人たちに気さくに声をかけ、山に作った防空壕の話をしていたそうです。父の人柄で助けてもらえたようなものです」と小林さん。戦後、助け出してくれた消防団員からその時の様子を聞かされた。

「赤ん坊だった妹は母の腕の中で生きていたそうです。死後硬直を起こしていた母から妹を取り上げなければならないでしょう。消防団の人は母に『ねえさん、かんにんやで』と声をかけ、母の指を一本一本外して妹を救い出してくれたのです。でも、それから2カ月以内に妹は死にました。栄養失調だったそうです」

祖父母は、その日のことだけは何も語らなかったという。

「幼子3人を残し、頼りにしていた2人に先立たれたのですから。特に母は一人娘でしたからね」

2歳だった小林さんは、両親の顔も覚えていない。空襲で自宅も焼失し、手掛かりとなるものも残っていない。

「夫婦仲は良く、自転車に二人乗りして明石駅前にぜんざいを食べに行っていたそうです。父親の写真は一枚だけ残っていましたが、横顔なのです。それもなぜか、洋服姿なのです。母親の写真は一枚もありません。かなうならば、夢でもいいから母親の顔だけでも見たいね」

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