10年におよぶシリア内戦。国土は戦闘で破壊され、多数の市民が命を落とした。内戦前に取材で知り合った一家も、弾圧や戦火から逃れるために難民となった。シリア人青年がこの10年を振り返る。(玉本英子)
◆17年前の出会い
分厚い眼鏡でパソコンに向かう中学生男子のコバン・オッシさんと出会ったのは今から17年前。シリア北東部カミシュリで、アラブ人と地元クルド人の衝突が起き、治安部隊がクルド人に大規模な弾圧を加えた。秘密警察の監視の目が光る市内で、取材に協力してくれた一家の息子が、コバンさんだった。
日本人が家に来たと目を丸くし、「シリア政府の人権弾圧を国外に伝えようとしている」と興奮していた彼。将来はコンピューター関連の仕事をしたい、と話していた少年の人生は、のちに始まる内戦で大きく変わってしまう。
fa-arrow-circle-right【動画:シリア・ダマスカス近郊 化学兵器攻撃】数百人の犠牲者ほとんどは一般市民
◆逮捕され命の危険感じ、脱出決意
2011年、中東諸国で相次いだ民主化運動のうねり、「アラブの春」はシリアにも広がった。アサド政権に反対する市民デモが各地で起きた。アレッポ大学に進んだコバンさんは、「独裁を倒し、この国に自由を」との思いから学生運動に加わった。
しかし、活動にのめり込むなか、仲間とともに治安当局に逮捕される。拘留中、何度も殴りつけられた。このときは解放されたが、命の危険を感じ、シリア脱出を決意する。
家族が親戚中から7000ユーロ(約90万円)をかき集め、密出国を手引きする闇業者に支払った。
「戦闘で狙われるのは若者だ。お前がまず逃げろ」。
父はそう言って送り出した。国境を越え、トルコ経由でギリシャに入り、姉がいたスウェーデンにたどり着いた。
審査ののち滞在許可を得ると、両親を呼び寄せる費用を捻出するために、ハンバーガー店で働いた。同世代の仕事仲間から「シリアってアフリカのどこ?」と聞かれたことが忘れられない。
戦火に包まれた故郷への関心を高めてほしいと、シリア情報を世界に発信する活動を続けた。
◆戦火に追われる住民「子どもたちに何の罪が」
2014年1月、私はシリア北西部の町を取材した。これにはコバンさんが同行してくれた。町からアサド政権の政府軍は去り、地元クルド組織が統治していたが、過激派組織イスラム国(IS)が近郊に迫っていた。
周辺地域からの避難民は、学校跡の建物に身を寄せていた。幼い子どもを抱えた女性は声を震わせながら言った。
「戦闘に住民が巻き込まれ犠牲になった。いったい子どもたちに何の罪が」
私の傍らで話に聴き入っていたコバンさんの目には、涙が浮かんでいた。
◆友人が互いに殺しあう内戦
当初の民衆革命は、アサド政権と反体制派の衝突のなかで、内戦へと至った。周辺国や大国がそれぞれの政治的思惑で各派を支援した。
コバンさんの友人には、イスラム過激組織やクルド武装組織に入り、戦死した者もいる。
「国民が銃をとって互いに殺し合い、たくさんの命が失われる結果になるなんて」
その後、両親とスウェーデンで再会したものの、つらい記憶が時折よみがえり、心身の状態を崩してしまった。一度はストックホルムの大学で学び始めたものの、現在は休学している。新しい自分の人生を生きてほしい、というのが両親の願いという。
青春の大切な時期のほとんどを失い、今30歳になったコバンさんは振り返る。
「内戦は故郷を分断し、友達や隣人を奪い、僕の心も引き裂いた」。
反体制各派、アサド政権、それぞれの勢力が「正義」を掲げ、続いた戦い。10年におよぶ内戦で650万人以上が戦火から逃れ難民となり、死者は45万人を超える。
(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2021年3月2日付記事に加筆したものです)