◆食料奪いスパイ視
沖縄県史(2017年刊)によると、事件を起こしたのは「国頭支隊通信隊の東郷少尉を隊長とする班」だという。国頭支隊は北部の守備に当たった独立混成第44旅団第2歩兵隊で、支隊長の宇土武彦大佐の名から宇土部隊と呼ばれた。
沖縄本島に上陸した米軍は北部方面にも進攻、国頭支隊は拠点とする本部半島を約2週間で制圧され、敗走した。沖縄県史は事件に関わった元通信兵の手記(1975年刊)を引き、「『各小隊あるいは分隊ごとの小人数に分かれ、自活しながら遊撃戦を展開』するようにと宇土支隊長から指示され、避難民や住民の食料を強奪しながら山中に潜伏していた」と記している。
避難民は仲村さんたちのような中南部の人々だ。45年2月、県が軍の指示で決定した中南部の老幼婦女子10万人を対象にした北部疎開。しかし食料不足は深刻で、栄養失調やマラリアなどで命を落とす人が続出。そこが敗残兵と同居する戦場になった。
米軍は敗残兵を掃討するとともに民間人の保護を進めた。一方、米軍に保護されたり、協力者と見なされたりした民間人が日本軍にスパイ扱いされ殺される事件が多発した。渡野喜屋事件も「大量の食料を支給されている」「日本軍の動向を通報している」としてスパイ視したという。元通信兵の手記によれば、集落を偵察した兵士2人が米軍に捕まったため、「復讐」として「襲撃し、スパイを逮捕」する計画だった。
捕まった2人は事件後、無事に戻ってきたという。
祖父、仁王さんに何が起きたかも記されていた。尋問の末、首を切り落とされたという。元通信兵は80年、美代さんを訪問し、現地への道案内を申し出た。仲村さんも98年、初めてその場で祖父らに手を合わせた。
「その通信兵もそうですが、一人ひとりはみないい人であっても、戦争は人を変えるのです」
◆母の証言 今度は自分が語りつぐ
仲村さんは事件から76年となる5月、大阪市北区のライブハウスで三線を弾き、美代さんから伝え聞いた事件を語った。
集会などで体験を話し始めたのは10年前から。きっかけは「沖縄戦で日本軍は住民を守った。住民を殺すようなことはしていない」という知人の言葉だった。ヤマトンチュ(本土の人)は何も知らないと実感した。証言を重ねてきた美代さんも90代に入り、自分が語る番だという思いを強くした。
「母は生前、私によくこう言ったものです。『お前はあの戦争で命を拾ったのだから、身体を大事にしなさいよ』と」
防衛隊に召集された父・元康さんは仲村さんが生まれて数日後、散髪道具を取りに寄り「ああ、男の子が生まれたか」と喜んだという。それが最初で最後の対面。いつどこで亡くなったかもわからない。
仲村さんは名護市辺野古の新基地建設で、激戦地南部の土砂を埋め立てに使う防衛省の計画に言及し、怒りをにじませた。
「戦後間もない頃、那覇市内でもボールを拾いに草むらに入ると、いたるところに遺骨がありました。祖母は『動かしてはいけない。戦争で歩けなくなった人を木の下や岩陰に置いて逃げなければならなかった。その家族が見つけられなくなってしまうから』と言っていました。沖縄戦で犠牲になった人々の遺骨を含んだ土砂が米軍基地建設に使われるなんて許されません」