先の大戦が始まって12月8日で80年。戦禍に倒れた落語家や漫才師、講談師ら「戦没笑芸人」たちも少なくない。1945年6月の大阪大空襲で亡くなった二代目桂花団治さん(享年48)もその一人。名跡を継承した三代目花団治(旧名は桂蝶六)さん(59)は空襲の悲惨な記憶を風化させることなく、落語を通じて次の世代に知ってもらいたいと、創作落語「防空壕」を制作。12月5日にピースおおさかで開かれる平和祈念事業「落語と平和」で披露する。(新聞うずみ火 矢野宏)
「二代目のご遺族(弟の孫)によると、防空壕の入り口あたりで亡くなっていたらしいとのことです」
花団治さんは、遺族の同意を得たという戸籍の写しを見せてくれた。二代目の本名は近藤春敏。1897(明治30)年10月7日広島県福山市生まれ。本籍は大阪市東区(現中央区)南農人町とあり、亡くなったのは1945年6月15日だった。
この日、大阪は4回目の大空襲に見舞われた。3月10日の東京大空襲から始まった京都を除く、当時の5大都市への焼夷弾爆撃の最後となる大空襲で、米軍はこの後、地方都市への焼夷弾爆撃と軍需工場へのピンポイント爆撃に転換する。
来襲したB29爆撃機は444機。午前8時40分から2時間にわたって焼夷弾3150トンを投下した。計8回を数える大阪大空襲の中で最も大規模な空襲だった。大阪市北西部と東部、隣接する兵庫県尼崎市の約6.4平方キロが焼失、477人が死亡し、17万6000人余が被災した。
「二代目はその前年に花団治を襲名したばかりでした。どれほど無念だったか……」
花団治さんが三代目の名跡を継いだのは2015年4月。以来、毎年6月になるたび、戦争のことが頭をよぎるという。
芸能史研究家の前田憲司さん(62)によると、初代桂花団治に弟子入りしたのは1915(大正5)年。当時19歳、「花次」と名付けられたという。修業時代があけて落語家として活動を始めた頃に、上方落語界は吉本興業が統一することになった。初代花団治は、「爆笑王」と言われた初代桂春団治の弟弟子。色気のある芸風で定評があり、吉本の専属第1号だった。
花次は、後の五代目笑福亭松鶴や初代桂小春団治ら若手落語家が中心となったグループ「花月ピクニック」のメンバーとして活躍した。だが、昭和に入ると、エンタツ・アチャコに代表される漫才人気の高まりとともに、落語は隅に追いやられたていく。
「落語家も漫才をさせられるようになり、花次も桂金之助とコンビを組まされたそうです。若手落語家が中心となって結成された吉本のバラエティー一座『喜劇民謡座』にも加入し、漫才や喜劇役者として活躍するのですが、落語をやりたかったようです。初代は漫才ばかりがもてはやされる寄席に嫌気がさし芸界から身を引き、絵を描いて生計を立てていたそうです」
このままでは上方落語がなくなってしまう――と、五代目松鶴が37(昭和12)年に吉本を飛び出し、「落語荘」を発足。落語への愛着を捨てきれなかった初代花団治と花次も加入する。
17年ぶりに高座復帰した初代は、太平洋戦争開戦の翌42(昭和17)年に他界。2年後の44年、花次は五代目松鶴の勧めで二代目桂花団治を襲名するも、翌年6月の第4次大阪大空襲で命を落とす。生前、「黄金の大黒」や「『いかけや』などを得意ネタとしていたという。
◆待望の名跡継ぐ
70年もの間、途切れていた桂花団治の名跡。復活のきっかけは、人間国宝だった故桂米朝さんが新聞コラムで「團治の名前は、春團治以外にも、玉團治、米團治、麦團治……いろいろある」と書いた一文がきっかけだったという。
「初代花団治のひい孫にあたる方が目にして、『あなたのひいおじいさんは花団治という落語家やった』との母親の言葉を思い出したのだとか。ちなみに、『団治』名というのは、歌舞伎役者の名前にあやかってのことだそうです」
遺族から「名跡を復活させたい」との話が桂春団治一門にあり、2015年4月に二代目桂春蝶さん(享年51)の最後の弟子である桂蝶六さんが三代目花団治を襲名する。戦後70年の節目の年だった。
関東の落語界は、前座―二つ目―真打ちと段階があり、真打ちになると盛大に披露公演が行われるが、上方落語には真打ち制度がない。それゆえ、襲名披露に大きな意義があるが、吉本や松竹芸能のようなプロダクションに属していない落語家の襲名は稀。春団治一門や周囲の人々らに支えられての晴れ舞台だった。
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