◆落語に救われた
三代目花団治こと、森隆久さんは3歳で母親と死別している。
「小学校での楽しい思い出はほとんど記憶にありません。人前で話すのが苦手な赤面症で吃音。いじめられっ子で、マットにグルグル巻きにされ死ぬ思いをしたこともあります。先生に助けを求めても、なぜかぼくに蔑んだような一瞥を送るだけ。みんなの前で『森くんは普通の子やないから放っとき』とも言われたこともあり、普通の子に憧れていました」
人生の転機は小学4年の時だった。「お楽しみ会」で友達と出し物をやることになったが、誰も組んでくれない。仕方なく、もう一人のいじめられっ子と漫才をやることにした。吃音ゆえ、猛練習を重ねて迎えた当日、クラス内は爆笑の渦だった。
「笑われていたのがみんなを笑わせた。それが快感でした」
高校では落語研究会に入部。先輩から「落語は漫才を一人でやるようなもんや」と勧められてのこと。「一人でネタを繰るのが一番ほっとできる時間でした」と振り返る。
「落語の世界って優しいんですよ。僕みたいな失敗ばかりする人間でも決して突き放さない。『しゃあないな』とか、『相も変わらずおもろい男やないか』などと言って温かく受け止めてくれる。僕にとって落語はシェルターでした。そこに滑り込むことで楽になれたのです」
大学に進学したが、学費が払えず中退。父親が会社経営に乗り出したが騙され、多額の借金を背負ったためだ。アルバイトをしながら大阪シナリオ学校に通う日々だったが、二代目春蝶さんの高座を見て魅了された。楽屋に押しかけ、弟子入りを志願した。が、弟子を破門にしたばかりの春蝶さんは「弟子は取らん」と公言していた。その場で助け舟を出してくれたのが「正司敏江師匠でした」。たまたま隣にいて、こう説得してくれたという。「春蝶くん、ええ子やんか、取ったりぃなぁ~。いや、この子はええと思うよ」
師匠から弟子入りを認められたのは20歳の時だった。
◆ありがたみ胸に
入門して39年。甲高い声に対する劣等感を解消するために20年間、狂言を学んだ。今では、その声を活かした演目に定評がある。また「発声と姿勢・呼吸法」の研究はライフワークとなっており、自身の経験や悩みから導きだしたコミュニケーション論を大学などで講じている。自他ともに認める「大阪で一番多く教壇に立つ落語家」となった。
「赤面症で吃音と、劣等感のかたまりだった僕が人前で話す商売をしているのですから人生わかりません」
襲名を機に二代目の生涯を通して空襲のことを調べるようになった。資料を集め、ピースおおさかにも足を運び、創作落語「防空壕」を制作する。
「不謹慎ではないかなと思ったのですが、二代目の無念さ、空襲のことを若い人たちにも知ってもらえればと思いました」
ピースおおさかでの平和寄席が開催される12月5日、大阪空襲死没者を追悼する「刻(とき)の庭」の銘板に二代目春団治こと、近藤春敏さんの名前が刻銘される。
「初代も二代目も、もっともっと落語をしたかったに違いありません。そう思うと、この名前が持つ重さを感じずにはいられません。花団治の名を継いだ者として、存分に落語ができる時代に生まれたことにありがたみを感じ、お二人の分までも落語をやろうと思います」
平和寄席では、客席の後ろから二人の春団治が見守ってくれるに違いない。