大正12年(1923年)に起きた関東大震災から今年で99年。1世紀という時の経過にもかかわらず、いまだ封印されたままの過去がある。震災下に行われた朝鮮人虐殺事件の真相は、これまで一度として公式に調査されず、その原因の究明も責任の所在も犠牲者の数さえも曖昧なまま忘れられようとしている。本連載は、震災下に広く流されたデマゴーグである〈不逞鮮人〉という言葉をキーワードに、当時の文学作品や体験者の証言などを追いながら、抑圧された負の記憶を呼び起こそうするものである。震災100年を前に、今この事件と改めて向き合わなt6ければ、真実を知り和解へとつながる道が永遠に見失われるかもしれないからだ。(劉永昇・編集者)
◆届かなかった「追悼文」
東京都立横網町公園。両国国技館にほど近く、東京スカイツリーが間近に見えるこの場所には、かつて陸軍被服廠があった。軍服などの被服品を開発・製造する機関である。
関東大震災が起きた1923(大正12)年当時には広大な空き地となっており、被災者が周辺から続々と避難してきた。そこに上昇気流にあおられた炎が竜巻となって襲いかかり、約3万8000人もの避難民が焼死するという多大な被害を出した。
横網町公園にはそうした犠牲者の遺骨を納める「東京都慰霊堂」が設けられている。震災や空襲の惨事を伝える資料を展示する「東京都復興記念館」もある。ここは関東大震災の被害を象徴し、後世にその記憶を継承するための記念公園なのである。
慰霊堂の北側には「朝鮮人犠牲者追悼碑」が設けられている。他のモニュメントに比べるととても小さなものだ。1973年の建立以来、毎年この碑の前で追悼式が催され、都知事の追悼文が届けられてきた。
ところが小池百合子都知事は、就任翌年の2017年から追悼文の送致をとりやめた。その同じ年から保守団体の「日本女性の会 そよ風」による追悼式典への妨害が始められた。「諸説ある」として朝鮮人虐殺そのものを不確定視する都知事の態度が、歴史修正主義者を勢いづかせているのだ。震災から98年となる2021年も小池都知事は追悼文を出さなかった。
震災時に流布したデマを信じた民衆や、戒厳令で出動した軍・警察によって殺害された朝鮮人は6000人以上にのぼるとされる。しかしその犠牲者の多くは遺骨さえ回収されず、今も歴史の闇に置き去りにされている。
◆よみがえった流言蜚語・「不逞朝鮮人」
「そよ風」の妨害集会をめぐっては、2020年になって変化があった。東京都が妨害集会参加者の発言を「ヘイトスピーチ」と認定したのである。報道によれば、その発言とは次の三つであった。
「犯人は不逞朝鮮人、朝鮮人コリアンだったのです」
「不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たち」
「その中にあって日本政府は、不逞朝鮮人ではない鮮人の保護を」
「不逞」とは、決まりを守らず勝手に振る舞うというほどの意味であり、「不逞朝鮮人」とは「無法で不従順な朝鮮人」ということになる。都が問題にしたのはこの「不逞朝鮮人」という言葉が、条例の定める「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に該当するという点であった。ただし認定の目的はあくまで「啓発」にあり、「そよ風」に対して直接の注意などはしていない。
それにしても、この「不逞(朝)鮮人」という言葉こそが混乱下で巨大な殺意となって朝鮮人を襲ったのだ。その呪うべき言葉が現代に復活し、白昼堂々と公言されている。
関東大震災時の朝鮮人虐殺は、市民による大規模な集団殺人として世界でも類を見ないものだし、被害者が同国内のマイノリティ(当時朝鮮は日本の植民地支配下にあり、朝鮮人もまた日本人とされていた)であることを考えあわせれば、日本史上最悪の犯罪として記憶が継承されなければならなかったはずだ。
その記憶がすりかえられようとしている。被害者に原因をなすりつけ加害者が被害者になりかわろうとしているのだ。そしてこの逆転こそ、惨劇を生んだ流言蜚語の<主調>と言うべきものだった。
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