社会主義者と朝鮮人労働者の結びつきに当局が警戒を強めるなか、関東大震災が起きた。帝都には戒厳令が布かれ、軍の出動が民心の惑乱に拍車をかけた。(劉永昇

◆朝鮮人労働者へのメーデー大弾圧

「虎ノ門事件」実行犯・難波大助( 増補版 難波大助大逆事件 虎ノ門で現天皇を狙撃 1979年9月/黒色戦線社刊)

震災4ヶ月前の5月1日、東京市芝区芝公園で第4回メーデーが開かれた。「植民地解放」をスローガンに掲げたこのメーデーには朝鮮人労働者が多数参加し、会衆の総勢は約1万人にのぼった。これに対し警視庁は2000人余の警官を投入して大弾圧を加えた。

日本人社会主義者が一様に驚いたのは、朝鮮人労働者の闘争力の強さだったという。この日から半年あまりのちに摂政・裕仁親王(後の昭和天皇)をステッキ銃で狙撃(「虎ノ門事件」)した難波大助は、このメーデーに参加していた。彼はその印象を記している。

メーデーにおける/サーベルの朝鮮人に対して行なった/あの暴圧と圧制ぶりはどうであったか。/東京の真中で、白昼衆目環視のうちで──/……東京ではせいぜい負傷ですむのだ。/それがあの海一つへだたった半島では秘密裁判の下に/首が飛ぶのだ。/……朝鮮人の心、憤怒、/盲動、破壊性、憎悪、呪い、/心臓の鼓動(詩人の言葉をかりれば)まで我々日本proletariat(プロレタリアート)と一致して/おる筈だ。uniteはただ/時機の問題

(大島英三郎『難波大助大逆事件』より)

大逆事件の記録を読みあさり、幸徳秋水に心酔した難波大助は「虎ノ門事件」の法廷で「速かに誤った権力の行使を改め、民の心を心として、虐げられたる人々を解放し、万民平等の社会の実現に努力せよ、然らざれば我七生生れ変っても、大逆事件を繰り返すであろう」と発言している。彼にとって社会主義とはそのような理想であった。

◆信濃川朝鮮人労働者虐殺事件

社会主義者と朝鮮人労働者の結びつきは、震災の前年に新潟県で起きたもう一つの虐殺事件が契機となった。

1922年7月22日『読売新聞』は、「信濃川を頻々流れ下る鮮人の虐殺死体/「北越の地獄谷」と呼ばれて付近の村民恐ぢ気をふるう、信越電力大工事中の怪聞」という見出しの記事を掲載した。

信濃川の支流・中津川の発電所工事所(大倉組)で働く朝鮮人労働者の実態を、目撃者の証言をもとに記事は暴いていく。

「朝は四時から夜の八、九時まで風呂にも入れず牛や馬のように追い使う。……からだは極端に弱る、堪え切れないから罷(や)めたいといっても承知して呉(く)れない」

耐えかねて逃亡をはかると、
「両手を後に縛り上げて三、四人の見張り番が杉の木に吊し上げて棍棒で打つ、なぐる」
「恐ろしい事によくこの山中で逃げ出した鮮人の腐爛した残死体が発見される。私が聞いた丈(だけ)でも川の下流だけでさえ死因不明の鮮人七、八名の死体が漂着しています。恐らく働かぬといっては虐(いじ)められ、逃げだしたといっては前のように嬲(なぶ)り殺しにされたのではあるまいか」

日本人の社会主義者はこの事件に強い関心を寄せた。

日本共産党を結党したばかりの山川均は「鮮人の先覚者と提携して、鮮人労働者を組合に組織することに努力する」こと、そして朝鮮人労働者に対する「いっさいの特種待遇の撤廃」を要求し、同一労働同一報酬の実現を「組合運動の一標語とすべき」だと訴えた(『前衛』1922年9月号)。

その11月に東京朝鮮労働総同盟会、12月には大阪朝鮮労働総同盟会が組織される。日本人社会主義者と朝鮮人労働者が団結し社会行動を行うことに内務省は警戒を強めていった。(参考:金一勉『朴烈』、山田昭次『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』)

堺利彦(中央)、大杉栄(左隣)らとも交友関係にあった山崎今朝弥(右隣)(森長英三郎 『山崎今朝弥―ある社会主義弁護士の人間像』 紀伊國屋新書)

◆戒厳令がもたらしたもの

ルパシカ姿の壺井繁治を誰何(すいか)したのは、なぜ「兵士」だったのか。帝都・東京には戒厳令が布かれ、市中に軍が治安出動していたのである。

戒厳令は震災翌日の9月2日に発令され、東京から神奈川、千葉、埼玉へと範囲を広げていった。施行の理由は警視庁の焼失による治安機能の低下と朝鮮人暴動などの「流言」に対処するためだった。

しかし、ほぼ同時に内務省警保局長は各府県知事宛に、「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行」「現に東京市内爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するもの」がいるので、「鮮人の行動に対し厳密なる取締り」を行うよう求める電文を送っていた。流言を真実と認め、朝鮮人の迫害を扇動する内容であった。

布施辰治と並ぶ人権派弁護士として知られ、40冊を超える雑誌を創刊した「雑誌狂」としても有名な山崎今朝弥は、戒厳令は「真に火に油を注ぐものであった」と述懐している。

諧謔を得意とした山崎によれば

「民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは慥(たしか)に軍隊唯一の功績であった」(「地震・流言・火事・暴徒」)

ということになる。
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