間島は現在の吉林省の延辺朝鮮族自治州とその周辺にあたる。写真は二道白河。石丸次郎撮影。

◆間島出兵による“虐殺”

1920年10月『読売新聞』は「厄介な不逞鮮人」と題した連載を始める。3回シリーズで、第1回のタイトルは「露国過激派と通じて我が官民を殺傷す」である。

「各地を襲撃してあらゆる暴虐を逞(たくまし)うすべし……その集団は単に馬賊のみならず武装せる不逞鮮人及び露国過激派も多数混入し居れる」(『読売新聞』1920年10月9日)

と間島地域で起きていた武装闘争の危険さを書きたてている。この年、日本は間島地域に出兵し、大規模な「不逞鮮人討伐」行っていたのである。

間島出兵による被害はどれほどだったのか。間島を領有する中国政府が日本政府に対し損害賠償を求めており、それによれば被害の全容は、死者3103名、捕縛者238名、強姦76名、家屋の放火2507戸、学校の焼失31校、教会の焼失7棟であった。(姜徳相「一国史を超えて」)

◆虐殺はテロとの戦い──

朝鮮独立をうたう「不逞鮮人」は、日本の権益に反する軍事的敵対者(匪賊・土匪)とみなされ、間島への出兵はテロとの戦いに勝つための「正義」と位置づけられた。その中で「不逞鮮人」の殲滅は正当視された。論壇ではわずかに吉野作造だけが無差別虐殺に着目し、「世界の道徳判定の問題」と批判した。

作家・中西伊之助は、朝鮮北部を旅した紀行文中に、自らを「不逞日本人」と称している。それは「不逞鮮人」に対する彼独特のまなざしであり、態度の表明だった。だがその中西にしても、まさかその3年後、今度は帝都東京で惨劇が繰り返されようとは、夢にも思っていなかっただろう。
(参考:アンドレ・ヘイグ「中西伊之助と大正期日本の不逞鮮人へのまなざし」)(敬称略 続く 12

劉 永昇(りゅう・えいしょう) 「風媒社」編集長。雑誌『追伸』同人。1963年、名古屋市生まれの在日コリアン3世。早稲田大学卒。雑誌編集者、フリー編集者を経て95年に同社へ。98年より現職。著作に『日本を滅ぼす原発大災害』(共著)など。

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