急速に進む帝都復興は時代の空気をネガからポジへと反転させた。日本文学においても<脱震災>は進む。破壊から建設へのモードチェンジが、虐殺の記憶を追いやっていった。(劉永昇

◆文学から消された朝鮮人虐殺

御蔵橋に打ち捨てられた死体(『サンデー毎日』1975年9月7日号)

関東大震災から2年も経つと〈震災文学〉は下火になっていく。芥川龍之介によれば、その理由はこういうことになる。

「大地震の災害は(中略)ただ大地の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に与へる影響はさほど根深くはないであらう。」(「震災の文芸に与ふる影響」)

徳田秋声もまた、
「気持ちの上でカラリとしたものを求めるより外ない。(中略)ここ暫(しばら)くはさういふ娯楽物が一般的な読書界を支配するのも亦(また)自然のことである」(「震災後の文芸について」)
と語っている。これは震災後に隆盛した大衆文学ブームを予言するものだった。

急速に進む帝都の復興は、横光利一や川端康成ら〈新感覚派〉と呼ばれた作家たちに強い影響を与えた。横光の述懐するところによれば、「私の信じた美に対する信仰は、この不幸(関東大震災のこと)のため忽ちに破壊された。新感覚派と人人の私に名づけた時期がこの時から始まった」(『三代名作全集 横光利一集』「解説に代えて」)という。

震災後の市街にはコンクリートの共同住宅が造られ、自動車が走り、飛行機が空中を飛び始めた。「焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形となって顕れた青年期の人間の感覚は、何らかの意味で変わらざるを得ない」(同)のであった。

 

震災復興橋の一つ、東京御茶ノ水の「聖橋」。1927(昭和2)年に建造された(『帝都復興記念帖』復興局、1930年)

川端康成もまた震災から6年後の1929(昭和4)年に『浅草紅団』を書き、震災前/後の繁華街・浅草の変貌から、「新しく書き変えられた「昭和の地図」」を広げて見せる。そうした文学作品が大衆の支持を受けたのは、ネガ(破壊)からポジ(建設)へとモードチェンジする時代とシンクロしていた。

風景の消滅が、記憶そのものを消し去るわけではないだろう。しかし、誰もが知っていたはずの朝鮮人虐殺という残虐行為の痕跡は、以後文学史上から消え去ってしまう。

 

川端康成『浅草紅団』(復刻版、日本近代文学館)

 

◆植民地の動揺

1909(明治42)年、東京四谷に生まれた中島敦は、1920(大正11)年父の転勤に伴って朝鮮に渡り、龍山尋常小学校に転校、翌年には京城中学校に進んだ。

東京に戻り第一高等学校に入学するまでの5年半、いまだ三・一独立運動の余波の残る京城で、中島は少年期の終わりを過ごした。彼が文学に取り組み始めたのも京城中学時代であり、同級生には後に植民地文学の代名詞と言われる小説『カンナニ』を発表する湯浅克衛がいた。
1923年・関東大震災の起きた年、中島は京城中学3年生だった。彼はそこで何を見ただろうか。当時、植民地・朝鮮には動揺が走っていた。

震災勃発の報は朝鮮社会を揺るがせた。朝鮮総督府はいち早く報道管制を敷いたが、震災で混乱する被災地に「不逞鮮人暴動」の流言蜚語が広がったことを朝鮮の新聞各紙はすでにつかんでいた。

政府は渡日した同胞の安否情報を求める朝鮮人の行動を警戒し、下関で朝鮮人の帰還を拒絶する方針を閣議決定、朝鮮総督府も内務省に同調して渡日阻止に動いた。

内地では加害や虐殺、迫害を逃れて朝鮮へ帰ろうとする朝鮮人が、関釜連絡船に乗るため下関に押し寄せた。帰還者から虐殺事件が伝わることを恐れた総督府は、「救護事務所」と称して釜山に収容所を設置し帰還者をその中に押し込めた。収容所内では、取調べと虐殺事件への口封じが厳重に行われた。

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