自警団が非常線を張り通行人を誰何している図(みすず書房『現代史資料4 関東大震災と朝鮮人』口絵より)

 

虐殺行為のトラウマによって、加害者は疑心暗鬼の中に囚われ続ける。戦時下に〈不逞鮮人襲来〉の幻影は、再び現実味を帯びた。(劉永昇

◆反復する暴力…三重「木本事件」と加害者のトラウマ

前回は、残虐行為の被害者がその記憶に囚われ、年月を経ても心の傷が容易に寛解しない状況を見た。では加害者側はどうなのか。加害者もまた反復する悪夢に囚われていた。

1926年に三重県で起きた「木本事件」は、その典型的な例と言えるだろう。1月3日、木本町(現熊野市木本町)のトンネル工事現場で2人の朝鮮人が地元住民に殺された事件だ。この前日、映画館に入ろうとした1人の朝鮮人が酒に酔った日本人といさかいになり、日本刀で切りつけられて重症を負うという事件があった。

翌日、木本町のあいだに朝鮮人労務者が復讐のため、「大挙してダイナマイトで木本町を灰燼にするとの流言飛語」(『紀伊新報』1926年1月5日)が流れた。

警察の要請を受けた町長の招集で在郷軍人会、青年団が竹槍や鳶口、猟銃などで武装して飯場を襲撃し、李基允、裵相度の2人が殺された。

『紀伊新報』1月6日付記事によれば、李基允は飯場の近くにいたところを「鳶口を頭に打ち込まれ」、木本町まで引きずられて絶命。裵相度は警察署に「私は死を決して鮮人をなだめる」と約束してトンネルに向かう途中、群衆に捕らえられ大格闘の末「嬲(なぶ)り殺された」。

極楽寺に横たえられた2人の死体は「二目と見られぬ惨状」で、竹槍などの凶器で突かれて「蜂の巣の如く」穴だらけであったうえ、3日間路上に放置されていたという。さらに群衆は山狩りを行い、逃げた朝鮮人約60人を追跡。流言はまったくの事実無根だったが、朝鮮人労務者は全て町を追われ、日本人に逮捕者は出なかった。

東京・数寄屋橋上を逃げ惑う母娘。(『東京大空襲秘録写真集』雄鶏社、1953年)

◆東京大空襲と流言のリフレイン

「木本事件」は関東大震災から2年半後という、いまだ記憶の生々しい時期に起こった事件だった。しかし、やがて戦時下となり日本本土が空襲にさらされる中、震災下の流言蜚語がまたもリフレインする。

次の数字は空襲の激化に伴って発生した流言の種類別取締状況(『特高月報』1945年1月~6月)である。

●「内地人の朝鮮人に対する流言」
大空襲の前 12  大空襲の後 24   合計36(41%)

●「朝鮮人の内地人に対する流言」
大空襲の前 4  大空襲の後 5     合計9(10%)

●「朝鮮人間の流言蜚語」
大空襲の前 13 大空襲の後 29     合計42(48%)
(鄭永寿「敗戦/解放前後における日本人の「疑心暗鬼」と朝鮮人の恐怖」より抜粋)

この表では1945年3月の空襲をいわゆる「東京大空襲」としており、それを境に朝鮮人への警戒心(同様に日本人への恐怖心も)が高まっていったことが見て取れる。こうした心理はどこから生まれたのか。

当時の司法報告書には、内地人は「空襲等の混乱時」にあって「朝鮮人が強窃盗あるいは婦女子に対し暴行等を加えるのではないかとの危惧の念」を抱いており、「かなり不安の空気を醸成し、果ては流言蜚語となり、それはまた疑心暗鬼を生む」傾向にある、との記述がある(「治安状況について」昭和19年1月14日、朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』第5巻)。

報告者である警保局保安課長は、日本本土が度重なる空襲にさらされるという非常時の中で、日本人と朝鮮人双方ともに「関東大震災の際におけるが如き事態を想起」しており、「善良なる朝鮮人まで内地人のために危険視せられて迫害を加えられる」おそれがあるとしている。

ここでも「不逞鮮人襲来」の幻影が否定されていないこと自体、「関東大震災の際におけるが如き事態」そのものなのだが、戦時下において「善良か不逞か」の選別はむしろ強められていった。それが、「非国民」という「不逞日本人」を見つけ出していったことは周知のことであろう。

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