アジア太平洋戦争に敗戦した日本は、植民地宗主国という特権的地位を奪われた。歓喜の声をあげる朝鮮人と日本人のあいだに新たな軋轢と緊張が生まれた。(劉永昇)
◆敗戦ショックの中で(2)
ある女性は、駅で電車を待つ日本人を押しやって電車に乗り込む朝鮮人たちに遭遇し、こう回想する。
「口々に朝鮮語でわめいては、どっと笑い崩れるその空気は、明らかに私たちを話題にし、嘲笑しているのが感じられた」
そして電車が走り出すと朝鮮人の一群は手を振りながら、
「「独立、独立、万歳」と日本語で叫び、またどっと笑った」
(赤沢史朗「戦後思想と文化」『近代日本の軌跡6 占領と戦後改革』)
こうした感情はどういった反応に結びついたのか。
それは八・十五から間もない、あるけだるい夏の日の午後のことだった。(中略)彼ら一団の先頭には、不吉にも黒々と日の丸の上におたまじゃくしの影を落とした太極旗がほこらしげにひるがえっていた。そばにいた近所のおじさんは、『ちきしょう! 朝鮮のやつらは、日本を半分占領するつもりなんだ。だから日の丸を半分黒く塗りやがったんだ』と歯ぎしりした。
わたしの肩に手をかけていた母は、『まあ! 日の丸が半分も黒くぬられちゃって』ともう涙ぐんでいた。(中略)『「戦争に負けたから、朝鮮人にまでバカにされるんだ』と苦々しくいった父のことばには、わたしの実感もあった。それはアメリカに負けたよりずっといやなこととして私の心に残った。
この一文は詩人・呉林俊が『共同研究 日本占領』(思想の科学研究会編)に引用した文章の孫引きである(原典は『朝鮮研究 32号』)。
呉林俊は「この痛恨をこめてその現場に己の視線をまっすぐにためらうことなく回帰させた」この日本人の「正直で誠実な告白」を貴重なものと見ていた。なぜなら、その後、日本が民主主義国家という衣服をあっさり着てしまったあと、日本人は朝鮮人を、
「独立した民族としてこれを見直すことをついにしないまま、歳月を積み重ねてゆく」
からである。
◆「寄居事件」―戦後に再現された残虐行為
それは残虐行為が再現されるのに恰好の「思想」であった。
新潟県警察部特別高等課「内鮮関係書類綴」(1945年8~10月)は、「新潟県で朝鮮人が川に毒を流し鮎が大量死した」という流言の発生を記録している。また1945年10月28日、富山県知事は「朝鮮人が日本国内全域で暴動を起こしており、日本人女性を暴行、強姦しているという流言蜚語」の発生を内務長官に報告している。
復員軍人による朝鮮人殺傷事件も多発する。中でも復員軍人を大量に抱え込んだテキヤ集団「桝屋一家」が二人の朝鮮人(金昌根、金聖泰)を斬首し、一人に重傷を負わせた事件「寄居(よりい)事件」は凄惨である。事件は1947年7月、埼玉県寄居警察署管内の花園村で起きた。
警察の手ぬるい捜査に業を煮やし事件の独自調査を行ったため逮捕された在日本朝鮮人連盟(「朝連」)側の弁護に立ったのは弁護士・布施辰治だった。布施の弁論によればこれは「地下に潜る軍閥に指導された暴力団による」重傷殺害事件であって、「日本敗戦の悲しさを以て、日本の敗戦を喜ぶ朝鮮人を憎んだナブリ殺し」であった。
それは旧兵士が桝屋一家を乗っ取ったというにとどまらない、日本社会全体に流れる「敗戦思想」──何もかもが戦争に負けたせいだ──という思想の逆流であるとしたのである。(鄭栄桓「「解放」後在日朝鮮人史研究序説」第3章)
◆「朝鮮人の一人や二人は殺してもいい」
付け加えれば、埼玉県寄居村(現埼玉県大里郡寄居町)は関東大震災時に虐殺事件が起きた土地であった。震災の四日後、被害を恐れて警察署に保護されていた28歳の朝鮮人飴売り・具学栄を、隣村の用土村から押し寄せた群衆が留置場内でめった刺しにし、警察署の玄関に引きずり出して止めを刺したのである(『かくされていた歴史―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』)。
布施辰治は2つの事件には共通して「朝鮮人の一人や二人は殺してもいい」という「関東大震災の虐殺事件以来」の「民族的差別賤視の観念」があると見ていた(「寄居事件弁護論文」)。
敗戦後、在日朝鮮人による日本人への暴力事件が多発したとか、「朝鮮進駐軍」と称し数々の犯罪行為を行ったなどという説がいまだにまかり通っているが、これもまた敗戦下に流された流言の類と言うことができる。(敬称略 続く 17 )
劉 永昇(りゅう・えいしょう)
「風媒社」編集長。雑誌『追伸』同人。1963年、名古屋市生まれの在日コリアン3世。早稲田大学卒。雑誌編集者、フリー編集者を経て95年に同社へ。98年より現職。著作に『日本を滅ぼす原発大災害』(共著)など。