2月中旬、国軍との戦闘が続く少数民族武装組織「カレン民族同盟」(KNU)の実効支配地域(カレン解放区)に入った。国連の発表では、2021年2月のクーデター以降、移動を余儀なくされた国内避難民は、ミャンマー全体で150万人にのぼる。国軍は空爆による攻撃を強めており、カレン解放区では新たに十数万人が国内避難民となっている。内戦が深刻化するミャンマー・カレン解放区で生きる人びとの姿を伝える。(赤津陽治)
◆ミャンマーとの国境の街タイ・メーソット
カレン解放区への入口は、国境の街タイ・メーソットにあった。
12年ぶりに訪れたメーソットは、大きく変貌していた。ミャンマーにつながるアジアハイウェイは片側4車線になり、国境には両国を結ぶ第2の友好橋が開通していた。街にはバンコクなどでよく目にするショッピングモールが立ち並び、街全体が巨大化していた。
以前と変わらないのは、ほとんどの場所でビルマ語が通じることだ。街には多くのミャンマー人が暮らし、飲食店や小売店、工場など、さまざまな仕事に就いている。
コロナ禍で陸路での出入国は制限されていたが、ことし1月、およそ3年ぶりに解除され、国境の橋を渡ってメーソットを訪れるミャンマー人も増え始めていた。
◆クーデター後に逃れてきたミャンマー人たち
メーソットには、軍事独裁体制下から逃れてきたミャンマー人も多く暮らす。
ことし1月に来たトゥーゾーさん(31)もそのひとりだ。
首都ネーピードーの本省に勤務していた彼は、クーデター直後から、CDM(市民的不服従運動)への参加を呼びかけた。CDMとは、公務員らが軍事政権下で職務に就くことを拒否し、政府機能の麻痺をねらった抗議手法だ。
「選挙で国民が選んだ政府ではなく、クーデターで権力を握った政府のためには働きたくなかったのです」
彼の勤務する省からは、全国で約800人がCDMに参加した。医療従事者や教職員、警官などを中心に、ミャンマー全体で約25万人の公務員がCDMに参加したといわれる。
参加した公務員の多くは免職され、軍事政権側のブラックリストに載せられた。彼とともにCDMに参加し、免職された同僚の女性(31)は昨年4月、ヤンゴン空港から出国しようとして拘束され、旅券を没収された。その後、解放されたものの、空路による出国の道が断たれていることを知った。
メーソットには、約7000人のCDMに参加した公務員が逃れてきているという。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、難民として登録を受け付けたミャンマー人のため、市内にあるホテル数軒を借り上げ、第三国に向かうまでの滞在先として提供している。しかし、希望者が殺到し、登録にさえたどり着けず、自力で生活する者も少なくない。
トゥーゾーさんは現在、国内で抵抗運動を続ける組織に資金を送り届ける役割を担っている。正式な滞在許可もなく、タイの警察や入管に捕まるおそれがあり、外出もままならない。それでも、近い将来の祖国の民主化を信じ、第三国に向かうつもりはない。
「この1年で決着がつくと信じています。それまで、ここに留まって抵抗運動を続けるつもりです」
◆国境を越えて解放区へ
私がカレン民族同盟(KNU)の解放区に入るのは20年ぶりだ。2003年に訪問したときは、メーソットから車で半日、ボートで半日、徒歩で丸1日かけて、KNUの第5旅団地域の中心地デボノに到着した。その後の域内の移動はすべて徒歩だった。
今回訪問した第6旅団地域へは、メーソットから車で1時間ほど移動し、河の対岸にボートで渡っただけだった。域内は四輪駆動車で移動ができ、一部舗装された道路もあった。
こうした状況は、平地が多いという地形的理由もあるが、解放区を実効支配するKNUが2010年代に停戦していたことが大きい。1949年に武装蜂起して以来、カレン民族の自治権を求めて戦ってきたKNUは、2012年に初めて停戦を受け入れたのち、解放区内のインフラ整備を進めた。
KNUは、独自の行政・司法機構を有し、カレン州、モン州、バゴー管区、タニンダーイ管区内の一定地域を実効支配する。カレン民族解放軍(KNLA)という独自の軍隊を持ち、第1から第7旅団の各旅団管轄地域がそのまま行政区分になっている。第6旅団地域はドゥプラヤー県とも呼ばれ、南北に延びるカレン州の南部に位置する。